ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

こんな世間に誰がした

2005年05月08日 | 通信-社会・生活

 南の島で生まれ育った私は、割合のんびりした性格で、5分、10分の遅れはちっとも気にならない。周りの友人たちには30分、1時間の遅刻も許容範囲内にある者が少なくない。また、自分が遅刻するのと同じくらい、相手が遅刻するのも気にならない。自分もたまに遅れるくせに、相手が遅れるとすごく不機嫌になるのは概ね女性に多い。「15分くらいいいじゃないか」、「その言い方が嫌なのよ」、「そっちだってたまに遅れて来るじゃないか」・・・なんて言い合いになる。まあ、たいしたことでは無いが。
 東京に住んでいる頃、「駆け込み乗車は危険ですのでお止めください」とアナウンスがあるのにも関わらず、大学の友人たちは駆け込み乗車をした。改札から電車が見えたりすると駅の階段を全力疾走したりする。運動会でもないのに全力疾走する経験のあまり無い南島の土着民はあたふたし、「デートの約束があるわけでもないのに、何でそう急ぐんだ」と疑問に思いつつ後に何とか付いて行く。東京でも、沖縄の友人たちと一緒の時は、少なくとも終電でないかぎりはあまりそういうことは無かった。電車は、また来るのだ。
 沖縄では1分1秒を惜しんでまで無理なことはしない、沖縄の電車(あったとしたら)の運転手は2、3分の遅れなど気にはしない、だから、沖縄では無理なことをしての事故はあまり無い。よって、沖縄は良いところである。・・・なんてことを言いたい訳ではない。沖縄のいい加減さは、それはそれでまた、別の事故を生む。“いい加減”のせいで起きた事故は、「テキトーでいいさあ」といった沖縄の雰囲気が起こす事故なのである。
 現在の日本国、その社会を形作っているのは政府や官僚だけでは無い。学者や文化人だけでも無い。言うまでも無く、われわれ国民の全てが社会の形成に関わっている。拝金主義も競争主義も、多くの人々が持っているそういった個々の雰囲気を総合した結果、社会全体がそのような気分で動いているのだろう。1分1秒を惜しみ、1円でも多く儲けようと考える。右の人よりも優位に立ち、左の人よりも多く得をしたいと思う。勝ち組み負け組みなどといった言葉に対し右往左往してしまう。今、この国はそんな雰囲気にある。
 脱線事故の現場近くにある顕花場で、現場の整理にあたっているJRの若い職員に掴みかかっているオジサンの映像がニュースで流れた。内容は忘れたが、ずいぶんと酷いことを、罵詈雑言と言ってもいいほどのことをオジサンは若い職員に浴びせていた。この若い職員に直接的な責任は無い。責任は会社の体質にあり、会社の体質は社会の体質を反映している。社会の体質は、我々一人一人が作り出したものである。身内を亡くしたオジサンの怒りは、若い職員にだけでなく、社会全体にその矛先が向けられるべきものだと思う。
 「こんな世間に誰がした」と唄いながら、私はテレビを観、旨いものを食い、旨い酒を飲んでいる。事故直後、JRの職員がボーリングやゴルフを楽しんでいたということについて、今朝のテレビの報道番組でも強く非難されていたが、彼らが楽しんでいたのと同じように、私も事故のニュースを見ながら酒食を楽しんでいた。私にとって事故は対岸の火事であるように、彼らにとってもそういう感覚だったのかもしれない。末端で働く彼らにも事故の責任があるとしたら、こんな世間の形成にいくらか荷担している私にも、いくらかの責任がある。まるで、正義の味方のように彼らを強く非難していた報道番組のキャスター、評論家たちは、自分自身には微塵の責任も無いと思っているのだろうか。

 記:ガジ丸 2005.5.8