若い頃、測量会社でバイトをした。測量士が指示した所に棒、または大きな物差しを持って立つのが主な仕事。測量士が指示する所は畑であったり、一般の道であったり、民家の庭先であったりもしたが、多くは藪の中。高さ2mを超え、先の見えないススキの中を突き進むなんてこともよくあった。
距離を測る測量の場合には、蔓延った雑草が邪魔になる。そういう時には除草作業をする。測量士の位置から自分が立つ位置までの直線にある雑木雑草を取り除く。その際、使う道具は大鉈。刃渡り3、40センチ、柄の長さ150センチくらいの大鉈を、ゴルフクラブを振るような形で振りかぶって、地面ぎりぎりを走らせ、雑草をなぎ倒す。大鉈を1回振るたんびに、たくさんの雑草がバタバタ倒れ、辺りは見る見るうちに視界が開けてくる。「大鉈を振るう」という言葉は、そのような状況をいうのだと、私は思った。
「大鉈を振るう」を広辞苑で引くと、「思い切って省略・処理する。」とある。実際に大鉈を振るって草木をなぎ倒した感覚からいうと、まさしくその通りで、「思い切って」振りかぶり、振り下ろして、景色を一変させ、爽快な気分を味わえる。雑木雑草に対し大鉈を振るう場合は、概ねそういった爽快感を味わうことができる。しかし、雑草に混じって、切って捨てるには忍びない植物が混ざったりしていると、なかなか「思い切って」は難しい。雑草の刈り方に手加減が加わり、結果、中途半端な除草となる。
濃い墨改革も、道路公団のケースを見る限りでは何か中途半端で、「思い切って省略・処理する。」というわけにはいかなかったようだ。さすが自民党ということだろう。いろいろなしがらみで鉈を思いきり振り下ろすことはできなかったのであろう。
郵政民営化も、自民党との交渉のあいだにあれこれ修正されて、中途半端なものになりそうだな、と思っていたら、濃い墨総理は、こればっかりは譲れないようである。大鉈を振るって、衆議院を解散したどころか、反対派議員の一掃までやろうとしている。その大鉈の真の狙いは、長年の自民党支配によって生まれた悪癖、あるいは悪習ともいうべき政官癒着の構造を断ち切ることにあるのだと、私は想像しているので、その為の大鉈振るいなら大いに結構と思っている。かつて自民党を応援したことはないが、濃い墨総理が、大鉈を振るい、悪い慣習をバッサリと切り捨てて、国民に見えやすいすっきりとした政治を目指しているのであれば、ちょっと期待してもいいかな、と思っている。
それにしても民主党の情けないことといったら、もう見捨ててやろうかとまで思ってしまうくらい。濃い墨が「濃い墨流郵政民営化」のカードを切って、選挙という勝負を挑んできたのだ。なんで「小禍多流郵政民営化」のカードを出さない。そんなカードを持っていなければ「郵政民営化不要論」でもいい。濃い墨の挑戦には真正面から受けて立って欲しいと思う。そうすれば、選ぶ方も選びやすいというもの。逃げるな!小禍多。逃げたら負けるぞ。「郵政」は選挙の争点にしない、なんて、情けないことを言ってくれるな。
今回の大鉈振るいは、日本国の膿を出すためのものと解釈し、その為に、ある所では大きな痛みが伴うかもしれないが、それには国民も耐えて欲しい。ただ、その矛先(この場合は刃先というのか)が、弱者へ向かわないように強く願う。注視していたい。
記:2005.8.12 ガジ丸
イチャリバは出会えばという意。沖縄のことわざ(なのか、あるいは言い回し)に「イチャリバ(イチェーワとも) チョーデー ヌー ヘダティヌ アガ」というのがあり、「出会えば 兄弟 何の 隔てが あろうか」といったような内容。
旅人が道を歩いていて、土地の人と出会う。一応、会釈する。と、
「ィヤーヤ、マーンチュガ?(お前は、どこの人か?)」などと訊かれ、それから少し立ち話をし、「イチャリバ チョーデー ヤサ(であるさ) ユクティイケー(休んでいきなさい)」となり、家に呼ばれ、お茶とお菓子をご馳走になり、しばしユンタク(おしゃべり)する。などといったことが昔はあったのかもしれない。今はそんなこと、あまり期待できない。が、きっと、まだ沖縄のどこかで、無いことは無い、と思う。
「出会えば兄弟」なんて気分でいると、争いごとがなかなかできない。本当の兄弟ならケンカはしょっちゅうだが、義兄弟と思うとケンカのしにくい距離感となる。良い距離を保っての「出会えば兄弟」はまた、相手が自分と同じ人間であることを前提としている。
今年もまた、8月15日が来る。世界の情勢を見ると平和はまだ遠く感じるが、日本人も朝鮮人も中国人もアメリカ人もインド人もアフガニスタン人もイラン人もイラク人もパレスチナ人もイスラエル人も、その他の国の人々も皆、イチャリバ人間で、お互いがお互いを人間であると認め、理解することが平和への道では無いか、と今考えている。
戦争をしたがるのは人民では無く、一部の強欲な権力者であると思う。人民は彼らに洗脳されて、扇動されてしまうのであろう。中国の指導部が行った反日教育などもその一種だと思う。もしも、中国の若者たちと日本の若者たちにたくさんの交流があり、お互いがお互いを深く理解しあっていれば、中国の指導者が何と言おうと、
「それは違う。過去はそうだったとしても、我々は同じ人間として平和に付き合う」などということになる可能性が高いと思うのである。
尖閣諸島は中国、台湾、日本で共同開発し、そこにいる三方の駐留員たちが月に1度、スポーツや文化で交流する。たまには互いの国から若い人たちを呼んで大合コンをやり、三国一の花嫁選びなどもする。竹島は韓国(できれば北朝鮮も)との共同所有とし、そこでも年に何度かイベントをやる。文化で、スポーツで、人間として交流し、互いの理解の場とする。韓国語を学ぼう、日本語を学ぼうなどという合宿もあって、いつも賑やか。
このように、争いの種でさえも逆に利用して交流を深める。といったようなことで平和な世の中が築けないものかと、私は思う。「あー、この島があるからこれらの国々は仲が良いんだ。だから東アジアは平和なんだ。」ということになれば、もしかしたら、島に対してノーベル平和賞が与えられるなんて、前代未聞のことが起きるかもしれない。
まあ、隣のお兄さんが実は殺人鬼であったなんてことが起こる今の世で、判断力の弱った年寄りを騙して金を奪うような今の世で、「出会えば兄弟」などと甘っちょろいことは言っていられないのかもしれないけど、少なくとも、「出会えば殺せ」なんていうような状況にならないような世の中であり続けて欲しいと思う。平和ボケといわれようが。
記:2005.8.8 ガジ丸