日々、都会のサラリーマンとして働いているKRは、数日間の沖縄滞在で命の洗濯ができたであろうか。日々、田舎ながらサラリーマンとして働き、一家の大黒柱として家庭を守っているIYは、数日間の沖縄滞在で命の洗濯ができたであろうか。
「命の洗濯」、私は「リフレッシュ」という意味だと理解していた。念のためにと広辞苑を引くと、「日ごろの苦労から解放されて気ままに楽しむこと」とあった。リフレッシュとは少し意味合いが異なるみたいだ。そのリフレッシュもまた広辞苑、「気分をさわやかに一新すること。元気を取り戻すこと」とのこと。
都会のサラリーマンに戻ったKRからは、「帰って早々風邪を引いた」とのメールがあった。IYからは「南の島の気分が抜けきれない」とのメールがあった。二人とも数日間の沖縄滞在で命の洗濯(日ごろの苦労から解放されて気ままに楽しむこと)はできたかもしれないが、リフレッシュ(元気を取り戻す)には至らなかったようである。
さて、数日間彼らに付き合った私はと言えば、彼らが帰った後の数日間、少々体調を崩してしまった。医者に診て貰ったわけではないので正確なところは言えないが、たぶん、飲み過ぎて、肝臓が過労となって、それが心臓に悪影響を与え、それが原因で酷い肩凝りになった、と想像している。「日ごろの苦労」のあまり無い私は、「気ままに楽し」んだ分がそっくり不摂生となり、その罰が当たってしまったようである。
広辞苑の解釈は別にして、「命の洗濯」という言葉はその字面から「世間の荒波に揉まれ、生きるに疲れてヨレヨレとなった心を、洗濯して、元気を取り戻す」と連想できる。これはリフレッシュとほとんど同じ意味となる。その意味では、世間の荒波に揉まれておらず、生きるに疲れたこともない私は、命を洗濯する必要は無い。
「命の洗濯」という言葉はその字面から別に、「長年酒を飲み続けて脂肪の溜まった肝臓や、長年煙草を吸い続け真っ黒になった肺などを洗濯して、正常な状態に戻す」とも連想できる。その意味では、私は大いに洗濯する必要がある。心の問題では無く、体の問題だ。私の体はきっと、歳相応に錆びている。時々、体のあちこちでギーギーと錆びた機械のような悲鳴が聞こえる。私の体は、命の洗濯期に来ている。
だからといって、洗濯機(人間ドッグ)に入ろうとは考えていない。これまで通り日々の摂生を続けるだけだ。汚れが溜まって命の終わりが来たら、それは寿命だ。
「私の体は歳相応に錆びている」と考えながら、「おめぇ、自分では気付いていないかもしれないが、心だって相当錆びているかもよ」と自問する。
「心が錆びるってどーゆーこと?」と問い返す。
「錆びた風車は、風に吹かれても回らないんだよ。いくつになっても、心がワクワクしたり、ドキドキしたりする事に出会えた方がいいってことだ。」
「であればさ、野山を散歩している時、見知らぬ昆虫に出会えないかとワクワクしているぞ。山道を登り切ったらドキドキしているぞ(これは違うか)。そうそう、先日、とびっきりの美女と飲みに行ったぜ。二人っきりではなかったけど、彼女がずっと隣だったので、ワクワクしていたぞ。」と自答する。私の風車はまだ生きている、はず。
記:2010.10.29 島乃ガジ丸