2月、ガジ丸HPに載せた『幸せな分身、真迦哉』というタイトルの「お話」、大雑把にいえば、起きている間の自分と寝ている間の自分は別々の人格を持ち、別々の人生を生きているが、心も体も一つで、どちらも「私」の内ということを書いている。
起きている間の自分は、女性をベッドに寝かせ、ブラのホックを外したり、パンツを脱がしたりすることは滅多にないが、寝ている間の自分は、それが頻繁にある。彼はほとんど躊躇することなく行動する。同じ脳なのに、お互い思考方法が違うみたいである。
謂わば、寝ている間の自分は脳幹(本能)優位の自分で、起きている間の自分は前頭葉(自我とか理性とか)優位の自分なのかもしれない。本能は理性の箍(たが)を外し、自由気ままに行動するわけだ。理性からは自由であっても、そこにはしかし、別の箍がきっと締められている。だから、夢の中であっても経験したくない事に出会う。
私が楽しい夢ばかり見ているのは、起きている間の自分が楽な生き方をしているからだと思う。楽しい夢を見るには、現実の自分が「楽な人生」、あるいは「生きていることが楽しい人生」であることが大事ということだ。親もいなければ女房も子供もいない天涯孤独のオッサンは、恋人もいないし、貧乏だし、地位も名誉もないので「生きていることが楽しい人生」とまでは言えないかもしれない。でもしかし、家族も恋人も、地位も名誉も金もとうに諦めているので、「幸せを得るためにはこうしなければならない、こうあらねばならない」といった縛りが無い分、「楽な人生」とは言えるだろう。
「楽な人生」は、元来の楽観的性格のお陰だと思う。楽観的なので夢も楽しいものを見る。楽観的性格ではない人達が不幸な夢を見やすいのであれば、同情するしかない。アドバイスできることがあるとすれば、「諦めなさい」と言うしかない。楽しくない夢も見ていた若い頃、私はきっと欲望に満ちていたのだと思う。「あーしたい、こーしたい」と思うことがたくさんあって、それらを夢の中で達成しようとしていたのかもしれない。夢の中でも達成する自信が無く、毎夜、大きな不安に襲われていたのかもしれない。
2月、従妹の娘、可愛いS嬢は、大学受験の最中であった。その頃、何度か彼女の話し相手になり、1度は勉強を教えにも行った。その頃、彼女は「浪人なんてしたくない。でも、大学に受かる自信もない」と不安を漏らしていた。さらに、看護学科を志望しているのだが、看護師という職業が特にやりたいことではなく、「じゃあ、あんたが将来やりたい仕事は?」と自問しても他に見つからず、悩んでいるとも言う。
そこで、オジサンは「なるようになるさ」と思ったが、それは口にせず、「大学に受かっても受からなくても、看護師になってもならなくても、幸せになる道はいくらでもあるよ」とだけアドバイスした。彼女は笑ってくれた。そして、それから数日後、大学受験が失敗という結果となった後の彼女に会った。彼女は意外に明るかった。「専門学校へ行くことにした」と言い、自分の目指す方向が何となく解ってきたと続けた。
私の中の「もう一人の自分」は夢の中の真迦哉になるが、若い人にとっての「もう一人の自分」は「将来こうありたい自分」だと思う。S嬢が自分なりにあれこれ考えて描いた「もう一人の自分」、それはきっと、彼女の幸せに繋がると期待している。
記:2014.5.2 島乃ガジ丸