ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

首里城周辺の他の史跡

2010年12月31日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 高校生の頃、同級生たちには心も体も健康だが、素行は不良という友人たちがいっぱいいた。彼らは部室でエロ本を読み、てんぷら屋(主に天ぷらを売っている食堂)で煙草を吸い、一人暮らししていた私の部屋にやってきては酒を飲んだ。
 タバコを吸い、酒を飲み、年に50回以上も遅刻をし、授業中に窓から抜け出したり、最初から授業を受けずにパチンコ屋へ行ったり、そりゃあ世間から見れば不良だったかもしれないが、我々は、天に向かって言えば、まったく善人であった。暴力を嫌い、人の悲しみを我が憂いとする心を持っていた。仲間同士ではもちろんのこと、他校の生徒と争うなんてことも一切無かった。我々の多くは平和主義者であり、道徳的であった。

  首里高校は首里城のすぐ近くにある。当時、首里城のある敷地には首里城では無く、琉球大学があった。我々は昼飯を食いに琉大の生協へたびたびでかけた。食後の一服は美味いということを既に知っていた我々であるが、さすがに琉大では吸えなかった。琉大から首里高へ向かう途中のある場所で、たいていは一服した。その場所とは園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)という、現在、国指定重要文化財となっており、2000年には世界遺産に登録されという文化財。その裏に回って、食後の一服を楽しんだ。
 園比屋武御嶽石門の扉は木材でできている。裏に回るとその木材部分にたくさんの落書きがされてあった。よくある誰が好きとか、相合傘とか、卑猥な言葉や絵などとかの落書きである。タバコを吸いながら「くだらねぇことするなあ」と思った。タバコを吸う真面目な少年たちは、歴史ある文化財に落書きするような真似はしなかったのである。
 5月に首里城近辺を散策した時、園比屋武御嶽石門の裏にも回ってみた。落書きはまったく無かった。地面の上にはタバコの吸殻も落ちていなかった。

 円覚寺(えんかくじ)
 「臨済宗の総本山。王家の菩提寺」、「池にかかる放生橋は住時のもので、国指定重要文化財」とのこと。私には何の思い出も無い。写真も撮らなかった。

  円鑑池(えんかんち)と弁財天堂(べざいてんどう)
 円鑑池は1502年に造られた池。龍潭と接しており、周囲からここへ水が集まる。ここから溢れた水が龍潭へ流れる。円鑑池に浮かぶ赤瓦屋根の建物は弁財天堂といい、航海安全を司る水の神・弁財天を祀っている。現在は1968年に復元されたもの。
 池には珍しいハスがあるという噂を昔聞いたことがある。他に思い出は無い。
     

 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
 御嶽とは神を祭り、祭祀が行われる場所。御嶽はこの石門の裏にある。この御嶽は守礼の門のすぐ後ろにあって、王府に関わった重要な御嶽とのこと。
 ここで、健康優良精神優良素行不良少年たちはタバコを吸い、吸い切ると地面に落として、靴で踏み消す。そこは既に吸殻だらけであった。今から思えば、何て無知で、感性の貧弱な少年であったかと反省する。園比屋武御嶽石門にはそんな思い出がある。
     
     

 記:ガジ丸 2006.7.20 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


玉陵

2010年12月31日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 中学の頃、周りに不良がいっぱいいた。同級生の不良たちは顔馴染みでもあったので、私に対して悪いことをするなんてことはそう無かったが、先輩の不良の中には、「えっ!何で殴るんだ」といった理不尽な行為をするような人がいた。中学の外に出て、他所の中学の縄張りに入ったりすると危険はもっとずっと増した。どこの中学にも悪い奴はいくらでもいて、顔なじみでは無い彼らは、まったくもって理不尽なのであった。
 高校は、私は進学校である首里高校に入った。首里高校の前身は県立一中である。卒業生にはあの山之口獏もいる。まあ、とりあえず名門なのである。そんな名門校には、よもや不良などというものはいるまいと私は思い、少なくとも校内や学校周辺では理不尽な行為を受けることはあるまいと思い、平和な3年間が送れると期待したのであった。

 入学してそう日の経たないある日、校外の食堂で昼飯を食った後、学校へ向かって一人で歩いていたら、いきなり後から肩を抱かれた。制服からして首里高生ではあるが、知らない男であった。「ちょっとつきあってくれ」と言う。男は私より背が低く、強そうな顔でもない。私は肩にかかっていた男の手を振りほどいて、彼の言葉を無視し、何事も無いかのようにゆったりと歩き続けた。後から何人かの走る足音が聞こえ、そして、「ちょっと待て!」と言う声と共に肩を掴まれた。5人の男に囲まれた。先輩のようであった。
 「ちょっと来い!」とリーダーらしき男が言う。5人が相手では逃げるのは無理。観念して付いて行く。先頭にリーダーが立ち、両側に1人ずつ、後に2人が続いた。
  彼らは玉陵へ入って行った。最初の建造物を越えて、次の建造物の中まで進む。ここはもう外からは見えない。おそらく大声上げても外へは届かない。「やられるのか」と思いつつ、名門首里高にまでこんな奴らがいるのかとも思い、少し腹が立つ。リーダーは私の前にいて石の上に腰掛けている。彼の両サイドに1人ずつ立ち、残りの2人は相変わらず私の後にいる。「俺たちは首里高校応援団だ」とリーダーが言った。
 私の学生服が他と少し違うことが気に食わなかったらしい。そのことや、また別のいろんなことについて団長がグダグダ言っているのを聞きながら、「しょうがない、久々に殴られるか」と考え、「でも、少しは抵抗してやろう」と考える。後の2人に一発ずつ、リーダーの顔面に蹴りを入れたら、後は殴られ放題になるか、などと考える。いやいや、ひょっとしたら、リーダーへの蹴りが上手く決まったら逃げられるかもしれないぞ、とまで考えた。が、そのすぐ後、私は平謝りすることになる。
 5人だけかと思った彼らのグループ、応援団とその取り巻きは、ふと気付くと、玉陵の建造物の上にずらっと並んで、30人ばかりの人数であった。
     

 玉陵
 「たまうどぅん」と読む。琉球国第二尚氏王統の陵墓。沖縄独特の破風墓で3基が連なっている。1501年に尚円王の遺骨改葬のために、息子の尚真王によって作られた。
 上記の話の頃はまだ史跡として、観光名所として整備されてはいなかった。尚家の墓なので、その縁の人が訪れるくらいであった。現在は入場料が必要だが、当時はただ。応援団の溜り場にもなったわけだ。私には楽しくない思い出の場所である。

 記:ガジ丸 2006.7.19 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


龍潭

2010年12月31日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 11月3日、文化の日前後(日程はちゃんと決まっていると思うが、覚えていない。正確な事は後日報告します)辺りに首里文化祭という行事がある。その行事ははるか昔、私が高校生の頃からあった。思えば懐かしや首里文化祭、とオジサンはノスタルジる。
 仮装行列とか、旗頭行列とか、他にもいろいろ催し物があったように覚えているが定かでは無い。私が覚えているのは祭りのクライマックスである花火大会。
 花火は、首里高からすぐ近くの龍潭で行われた。始まるのは夜8時頃だったか、1時間ほどもやったか、まあ、とにかく、我々は最後まで見た。一番最後にナイヤガラの滝があった。池にロープを渡して、そのロープから火花が流れ落ちる。火花は水面にも反射して輝く。それを見終わってから健康優良素行不良少年たちは酒を飲みに行ったのである。
-  私が在籍している頃の首里高校は割りと自由な校風で、喫煙については「あまり目立つところで吸うなよ」で、飲酒については「酒は飲んでも飲まれるなよ」で、夜遊びについては「夜中に騒いで、他人に迷惑かけるなよ」ていどの、まあ、先生によってはずっと厳しい人もいたが、概ねはそういう気風であった。首里文化祭が終わって、近くの琉大グランドへ飲み仲間が集まる。酒瓶持ってそこへ向かって歩いている時に先生に出会うことがあっても、「おう、花火見てたか?」と聞かれ、「はい」と答えるだけであった。
 龍潭の思い出というとその花火大会くらいしか私には無い。首里高生のデートスポットであるとの噂ではあったが、あいにく私には相手がいなかった。
     

 龍潭
 「りゅうたん」と読む。高校の頃、我々は龍潭池と呼んでいて、今までずっとそうだと思っていたが、今回調べてみたら、池はつかないということが分った。潭という字そのものに「深く水をたたえたふち」(広辞苑)という意味がある。
 1427年に造られた人工の池。冊封使(新国王を認可する中国皇帝の使者)を歓待する船遊びの宴がここで催された。庶民の憩いの場でもあったらしい。

 記:ガジ丸 2006.7.19 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


首里城

2010年12月31日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 私が高校生の頃、今、首里城のある場所は琉球大学だった。琉球大学の東隣には沖縄キリスト教短期大学があった。私が大学生の頃もまだそうであった。
 キリ短(沖縄キリスト教短期大学)には後輩の女子が進学していて、帰省した時に1度だけ彼女に会いに行ったことがある。彼女に会ったのは、大学のキャンパスでは1度だけだが、その他の場所では何度も会っている。そう、私は彼女が好きであった。生涯で最も好きな人であったが、結果的には悲恋に終わった。キリ短には、切ない思い出しか私には無い。今は西原町にあるキリ短。金曜日の職場へ行く途中にあるが、今でも切ない。
  琉大(琉球大学)にはビー研というサークルがあった。正式名称はビートルズ研究会という。高校の同級生にビートルズの好きなのがたくさんいて、琉大へ進学した内の何人かがそこのメンバーであった。私はビートルズに興味は無かったが、その部室を一度訪ねたことがある。文科系のサークルなのに、なぜか酸っぱい匂いのする部室であった。
 琉大の思い出は他に、学食のカレーライスが安くて旨かったこと、先輩連中にまだ学生運動の生き残りがいて、「革マル」なんて書かれたヘルメットを被り、ゲバ棒なんていう「官警に対抗する武器」を持っている人を何度か見かけた、などということがあるだけ。今は宜野湾市、西原町、中城村に接した場所にある琉大、そこもまた金曜日の職場へ行く途中にあるが、そこはまた、切なくなるなんてことはまったく無い。
     

 首里城
 首里城は琉球国の行政府であり、国王の居城であった。首里城全体は内郭と外郭に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。
 60年前の沖縄戦で、日本軍の司令部となったお陰で壊滅状態となった。戦後すぐに、そこに琉球大学が建てられた。琉大、及びキリ短が現在の場所に移転した後、1992年に城は再建され、今は沖縄の名所の一つとなっている。
 首里城を含め琉球王国時代の城郭が世界遺産に登録されたらしいが、首里城にはあまり興味の無い私は、それが最近であったということしか記憶に無い。私にとっての首里城は琉球王国の栄光であり、琉球大学であり、何より、キリ短なのであった。

 記:ガジ丸 2006.7.18 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


赤田首里殿内

2010年12月31日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 ゆいレールと愛称のある沖縄都市モノレールは、各駅にテーマ曲がある。どの駅がどの曲であったかはっきり覚えていないが、首里駅は「赤田首里殿内」という古い童歌ではなかったかと推測できる。なぜなら、首里駅の近くに赤田という地名があるからだ。駅に縁のある曲であれば、当然、テーマ曲はそれを使うに違いない。
 この「赤田首里殿内」はとても面白い歌で、
 あかたすいどぅんち くがにどぅるさぎてぃ うりがあかがりば みるくうんけ
 (赤田首里殿内 黄金の灯籠提げて これが明るくなれば 弥勒お迎え)
と、本編はまあ普通なのであるが、その後の囃子が面白い。
  シーヤープー シーヤープー ミーミンメー ミーミンメー ヒージントゥー ヒージントゥー イーユヌミー イーユヌミーとなっている。特に意味の無いただの囃子であろうと思っていたら、面白い意味があったのである。『沖縄大百科辞典』によればそれぞれが動作を表し、シーヤープーは「頬を膨らませて首を横にふり」、ミーミンメーは「両手で両耳を引っ張って左右にふり」、ヒージントゥーは「肘を左右交互に手で叩き」、イーユヌミーは「指で掌を突く」、ということであった。
 この歌は曲も哀調を帯びたきれいなメロディーで、囃子の部分が赤子をあやすのにちょうど良いリズムでもあるので、私はてっきり子守唄なのかと思っていた。同じく『沖縄大百科辞典』によれば「言葉を使い始めた頃の幼児をあやすときに歌われる歌」とのこと。沖縄の歌が好きという人には覚えて欲しい歌の一つである。
     

 言葉の説明
 赤田首里殿内:赤田(地名)にある首里殿内(建物の名)ということ。
 みるくうんけ:みるくは弥勒の沖縄読み。弥勒は弥勒菩薩のこと。首里殿内には弥勒面が祭られていて、旧暦7月にミルクウンケーという行事があった。
 歌詞を解り易く訳せば、「赤田首里殿内の黄金の燈籠に灯がともったなら、弥勒をお迎えしましょうね。シーヤープー、シーヤープー・・・」となる。

 「首里殿内は三殿内の一つで、女神官聞得大君がどーのこーの」という、これもまた沖縄の歴史と文化にかかわる話があり、ミルクウンケーも、何故沖縄に弥勒信仰があるのかという話もあるが、これらについては、いつか別項で紹介しましょう。

 記:ガジ丸 2006.7.8 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行