もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

反天皇制判事のその後

2019年03月23日 | 天皇・皇室

 反天皇制活動疑惑が取り沙汰されている、名古屋家裁判事のその後が報じられた。

 報道は、衆院法務委員会の質疑で最高裁の人事局長が、「裁判官の私生活上の自由や思想・表現の自由にも配慮しつつ慎重に調査している」としつつも「事実関係が確認できない」と答弁したものである。後段の事実関係の確認については、本人に対する聞き取り調査を行ったのみで、事実関係を特定するための証拠の収集や分析に立ったものではないらしい。被疑者の多くが犯罪行為発覚の初期に事実を否定し、抜き差しならぬ証拠を突き付けられて事実を認めることは司法関係者であれば常識であると思うのだが、裁判所内の現実はそうではないようである。本人の初期の供述のみで事実を決するのであるならば、ゴーン氏は無罪で逮捕即日に釈放されなければならないことになるが、こと身内に対しては甘すぎるように感じられる。前段の私生活上の種々の自由に関しても、私生活や思想と仕事は別物と考えているのだろうかと疑問が湧く。極論であるが、奉行所の同心でありながら裏稼業(私生活)では殺人者である時代劇「必殺仕事人?」主人公の中村主水すら許されるとするのであろうか。君子は、「李下に冠を正さず」「盗泉の水を飲まず」として自分の生き方に疑念を抱かれることさえ恥辱とし、戦後の混乱期にあって「悪法も法」として食糧統制法に殉じて栄養失調で亡くなった裁判官が存在したとも聞いている。家裁判事の言動については疑念の域を超えて有り余る証拠が存在しているにも拘らず、いまだに厳密な意味での調査が行われていないことに、最高裁の事務方が裁判官の地位に対して過度に忖度している姿勢が窺い知れる。前文と相まって国民主権に関する根拠規定とされる憲法1条(天皇の地位)を否定する家裁判事の姿勢は日本国憲法の否定であり、私生活における思想の自由では済まされない問題であると思う。

 人格が高潔で・識見が抜きんでているとした取手市の教育委員会の構成員の下した判断は、衆人に劣るものであったことが露見した事実に加えて、今回の裁判官の言動。平均的な市民の変化以上に、国民の安寧確保の中心として存在すべき階層の意識の変化や堕落が起こっているのではないだろうかと危惧するものである。大木(日本)が倒れるのは、表皮(国民)が腐るよりも、大木の中(中心的階層)に空洞があることによる場合が殆どである。大国の興亡史を見ても、すべては指導的階層の存在と彼らの意識の変革に起因している。


新元号事前公表と日本会議

2019年02月03日 | 天皇・皇室

 新元号を改元の1ヵ月前に公表するとした政府方針に対して、日本会議が遺憾の意を表明した。

 遺憾とする点は、歴代天皇が即位後に改元されてきた「代始改元」の伝統に反することである。「代始改元」という言葉を始めて目にして、まだまだ知らないことが極めて多いことを改めて思い知らされた。閑話休題。確かに、新元号を即位前に公表することは開闢以来初めてのことであろうが、明治憲法で「一世一元」と定めたことも開闢以来初めてのことであったのではないだろうか。古来から暦と元号は大和の祭主である天皇が定めるものであったが、天皇を神格化した明治新政権ですら改元に伴う諸手続きと国民の混乱を局限するために、敢て天皇の改元権を制限(畏れ多いことながら剥奪)して「一世一代」の制度を定めたと理解している。中世では新元号が末端まで徹底されるには相当な期間が必要であったものと思われる。その証拠に、地方の知識人が残した古文書には、元号と暦年表記が誤って記載されているものが少なくないとされており、国民の諸届けや役所の書類は手書きであったことから改元に伴う混乱は軽視できる程であったと思う。明治以降になって書類は、必要事項のみ手書きする穴埋め式となったであろうものの、用紙は役所にしかなく役人の指導も比較的容易であったであろう。しかしながら現在では、様式をダウンロードすることが普及するとともに、諸手続きや決済も電脳の仮想空間で済ますことが定着している。それ故に、官民を問わず改元日の0000時には一斉に新元号に移行することが望ましいと考える。K2Ý(西暦2000年)時と同様に、電脳空間も準備・整理する必要性を考えるならば、新元号の事前公表も已むを得ないと考えるものである。遺憾の意を表明した日本会議の存在を知ったのは石原慎太郎氏の言動・動向に伴ってであったと記憶している。改めてHPを観ると錚々たる顔ぶれが役員名簿に名を連ねており、天皇制下における国造りと改憲(自主憲法制定)のためのシンクタンクを目指しているものかと推測するが、残念に思えることはHPが見難いことであり、我々民草には近寄り難いサロンの雰囲気に満ちている。まァ当然のことではあるが無料会員の制度がないため、年金暮らしには高い敷居を感じさせることも、草の根まで発展しない活動かと惜しむものである。

 即位に伴う国事行為や皇室行事を全く無視して、1月1日に改元すべきとした赤松広隆衆院副議長のような暴論はともかくとして、民心と民生を考えれば新元号の事前公表は、時代に対応するためには辿るべき道であると思う。“古き皮袋に新しき酒"を詰めることは、伝統を守ること同じくらいに必要であると思うのだが。


天皇誕生日に際して

2018年12月24日 | 天皇・皇室

 昨23日、天の陛下が85歳の誕生日を迎えられた。

 来年の4月30日に譲位されて上皇と尊称されるために、天皇として迎える誕生日としては最後であり御感慨もひとしおと拝察する。現人神の立場から象徴天皇になることを余儀なくされた昭和天皇に対して、象徴天皇として即位された今上陛下は、お言葉の端々にも国民に気を使われる様子がありありと感じられるもので、皇統の永続と皇室文化の継承を担う傍ら、ある意味で逆の思考が求められる国民統合の象徴という憲法規定との融合に心を配られてのことと考えている。陛下は皇太子時代を含めると、御成婚時のパレードへの暴漢侵入、沖縄訪問時の火炎瓶事件、山形国体時の発煙筒事件など幾多の天皇制反対者の直接行動に遭遇されている。昭和天皇に対しては終戦後の荒廃した社会下での全国行脚でも直接的な行動は受けられなかったのではないだろうかと考えた時に、今上陛下が従来の高みより1段降りた結果に起因するのではないだろうかとも危惧している。陛下を含めて皇族が国民に近付こうとすればするほど、心無い国民は恰も不満を持つ隣人に対する行動と同じように振舞ってしまうのではないだろうか。帝国憲法が規定したように『神聖にして侵すべからず』の方が、天皇制の記述として正しいのではないだろうかとも感じてしまう。各国の大使が信任状を元首である天皇に奉呈する際には、社会主義国を含む殆どの大使が馬車に依る参内を希望し、天皇に拝謁したマッカーサーを含む外交官の多くが、世俗を離れた天皇と聖櫃に溢れた皇居に畏敬の念を持つとも云われている。天皇制反対を主張する人々が考えている日本国の体制がどのようなの物なのかが判然としない。おそらく国家元首は無機質な官邸に起居する、選挙で選ばれた大統領制若しくは中国式の国家主席の体制であろうが、トランプ氏の強権、マクロン氏の現実無視、習氏の新植民地主義、金正恩氏の先軍思想のように、いかに任期内で国際社会に波風を立てるかを使命とするような俗物が誕生することとなるであろう。大統領制の最悪の失敗例は韓国で、ポピュリズム至上の舵取りでは独自文化を育成・永続させることができないことを証明しているし、ドイツの大統領は名前すら答えられない。やはり、象徴的な天皇を元首として戴き、短期間の評価によって行政の長である総理大臣を選択できる現行制度の他には考えられないと思っている。

 今の日本の大多数の国民は皇室を特権階級、遊山階級とは考えていないと思うので、天皇陛下を始めとする皇族方におかれては、一部の狂信者が唱える天皇制反対の声に惑わされることなく、東洋の神秘の根幹であって欲しいと願うものである。


大嘗祭の国費支出は当然

2018年12月01日 | 天皇・皇室

 秋篠宮殿下が、今上陛下の譲位に伴い行われる大嘗祭は、天皇家の私的行事として国費の支出を疑問視する発言をされた。

 今回の御発言を受けても政府は、大嘗祭を国事行為として国費で行うという従前の計画の通り実施することとした。憚り多いことであるが秋篠宮殿下の真意を推し量れば、国庫に対する御懸念に起因するところが大きいと考えるが、大嘗祭の意義を考えれば、古来は新天皇が天皇家の弥栄を神と歴代天皇に誓願する場であったかもしれないが、現行憲法下にあっては天皇は国民統合の象徴であり、天皇陛下が即位に当たって国民の代表として国家の伸張と安寧を誓願する儀式に変質しているのではないだろうかと思う。他国に例を求めるのも畏れ多いことであるが、国家元首の就任式は当然に国家行事で執り行われていることからも新天皇即位式の一環としての大嘗祭は国事行為であると考える。秋篠宮殿下には政教分離に抵触するか否かという御懸念もあると思うが、従前から書いているように神道には教典・教義による他律の強制がないことから、政治学の提唱する政教分離の宗教には当たらないと常々考えている。さらに、現在の元号法では1代1元号とされているために元号も改正される。元号は民心統一のキャッチフレーズとも呼べるもので、かっては天変地異や騒乱が起きると民心一新のために改元されていた。今回の今上陛下の禅譲を忖度すれば、ご自身の健康状態以上に若い天皇と新時代に相応しい元号で、日本の繁栄に弾みを付けようとされたのではないかとも考えている。中国でさえ折に触れてキャッチフレーズを変えているのは周知のところである。閑話休題、政教分離の定義に使用される宗教(神道)に対する自分の考えが異端ではなかろうかと心配になったので、ネットで調べてみた。神道を宗教とするもの、宗教ではないと主張するもの、等繚乱であるが、出雲大社紫野教会のHPの一文が常識的なものではなかろうかと思い転載させて頂く。<私個人の宗教の定義は、最も幅の広いものになると思いますが、「個人の生き方、行動の指針になる考え」はすべて一種の宗教だと思っています。神などいない、という唯物論も、宗教など信じない、という無宗教を自称する人の考えも宗教であると。(神道は)正確には宗教的概念というべきでしょうか。>

 秋篠宮の御発言に端を発した大嘗祭の国費支出問題。皇位継承順位第2位の御発言であっても、大嘗祭を含む一連の即位式は国民全体で奉祝すべき儀式と思う。敢て不敬を覚悟で述べさせて頂けば、秋篠宮におかれては狭義の政教分離と国庫にご配慮いただく以上に、2600年に及ぶ皇統と東洋の神秘を守り通せる皇族であって欲しいと願うところである。

 

 


志位和夫氏の天皇の戦争責任論に思う

2018年08月25日 | 天皇・皇室

 日本共産党志位委員長の天皇陛下の戦争責任発言が炎上している。

 迂遠な表現ながら天皇制(立憲君主制)の廃止を綱領に謳う共産党のトップとして当然のツイートであろうが、論拠が歴史的事実の誤認にあると多くの識者が疑問を呈している。この際にと思い日本共産党綱領(2004年改訂)を再読したが、とても2018年の国際情勢下においては通用するものではないと再認識した。2004年当時はソ連型社会主義が破綻し国際的枠組みの再編が加速する中にあって、社会主義の模範生として中国が急成長する時期であったと思う。綱領は、生産手段の公有化、農業を国の基本に置く、社会主義体制を維持しつつ自由主義経済体制に参加、とりわけアメリカ依存構造からの脱却を随所にちりばめたもので、”農村が都市を包囲する”とした毛沢東の戦略と鄧小平の改革開放路線を融合させたものに、現下の教育、人権、エネルギー問題を付け加えた中国礼賛論に過ぎないと感じた。中国型社会主義が、農村の疲弊と都市への人口集中、国営企業の放漫経営・汚職の温床化・環境破壊、人民元国家管理の危機等々の事態を招き、情報管理と軍及び国家警察による強圧なくしては国民が統御できない事態に追い込まれている現状を見る限り、共産党綱領に基づく国家に明るい未来は見えないと感じた。モリ・カケを含む問題が起こるたびに、共産党は綱領の都合の良い部分を示してソフトかつ清廉さをアピールするが、根底のおぞましい部分は隠している。綱領のキモである生産手段の公有化一つを取ってみても、公有化の範囲や公有化の手段(接収・買収?)については言及しないし、生産手段の公有化によって当然生じる富の不均衡と管理者の特権階級化には頬かむりしている。さらには、日米安保はおろか如何なる国とも軍事同盟を結ばずに、自衛隊(軍備)さえも廃止し永世中立国家を樹立するとも書いているが、同様な国家を樹立した小国コスタリカのように諸外国が日本の中立を支持するとは思えないのだが。

 志位委員長のツイートと軌を一にするかのように、小池晃書記局長の在日大韓民国民団の光複節記念式典参加も論を呼んでいる。共産党は、同日に行われる全国戦没者慰霊式典に例年欠席しているのみならず異国の戦勝記念式典に列席するとは、「日本から出ていけ‼」の書き込に同調したい気分である。