裁判員をしたことに起因する心因性障害を訴える人が数多くいるとのことである。
産経新聞の報道によると、1審の裁判員裁判の結果が上級審で覆ることも一つの原因と報じられている。では何故に上級審で覆るのだろうかを考えると、多くは新証拠の発見等に依る罪状の変更よりも情状酌量の加減に起因することが多いと考えられる。情状酌量は罪過に対する量刑の加減で示されるものであるが1種のさじ加減で、所謂ダブルスタンダートとでも表現し得るものと思う。日本の裁判では、罪過の有無よりも罪を犯した背景に重点を置きすぎていると思う。有識者や報道は、折に触れて『同種犯罪の再発防止のために、犯罪の背景を明らかにしなければならない』というが、20年以上続いている一連のオーム裁判や少年犯罪の凶悪化の教訓から、何が生まれたのだろうか。裁判で事件の背景を詮索することは、1種ののぞき見趣味を満足させるだけの結果にしか寄与していないのではないだろうか。また、情状酌量に大きく影響するのが『改悛の情』『被害者への謝罪』に基づく加減であるが、斜視的に言えば犯罪者の演技力の審査に他ならないと思う。アメリカでは真に情状を酌量されるべき事案については、判事が量刑を加減するのではなく陪審員が無罪にしてしまう。日本のように2重基準を適用して量刑を加減するよりも、乱暴ではあるが理にかなった方法であるように感じられる。
老老介護に疲れた故の尊属殺人、重篤者の哀願に基づく委嘱殺人、情状の酌量には難しい面が多いと思うが、1審の裁判員裁判での量刑を上級審が加減することは禁じた方が良いのではないだろうか。その方が、国民の処罰意識を反映できると思うのだが。
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