もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

チェンバレン・平沼騏一郎を学ぶ

2021年12月21日 | 歴史

 アメリカの新聞が、バイデン大統領を「現代版ネヴィル・チェンバレン」と書き立てていることが報じられた。

 ネヴィル・チェンバレンは、1937(昭和12)年5月~1940(昭和15)年5月の間イギリスの首相であり、ナチス・ドイツに対する宥和政策で第二次世界大戦を招いた世紀の失策の政治家とされている。
 1938(昭和13)年9月、チェコスロバキアのズデーテン地方帰属問題解決のためにミュンヘン会談を主導して、ヒトラーに対して「これ以上の領土要求を行わない」ことを条件にズデーデン地方の割譲を認めたことで、ヒトラーに誤ったシグナルを送ったとされているが、ミュンヘン会談の結論は、当時の欧州からはドイツとの全面衝突を回避した英断と高く評価され、英本国でも帰国したチェンバレンに国王夫妻とともにバッキンガム宮殿のバルコニーから国民の歓迎を受ける特権を与える等の評価を受けている。
 1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻を受けて、2日後の9月3日に対独宣戦布告を行う羽目に陥り、結果的にミュンヘン会談は対独戦を1年間先送りしたに過ぎない結果となった。この1年間でイギリスの戦争準備が整ったとの評価もあるが、チェンバレンの後を継いだチャーチルは「ドイツにも戦備充実の時間を与えたもの」と評しているように、後世の評価は芳しくないようである。
 一方、平沼騏一郎氏は第35代内閣総理大臣として1939(昭和14)年1月5日から8月30日まで内閣を率いた。1937(昭和12)年に締結された日独伊防共協定に基づいて共産主義(ソ連)の浸透阻止に当たることを信じていた平沼であるが、1939年8月20日のノモンハンでの日ソ衝突を横目に8月23日に独ソ不可侵条約が電撃的に締結されたことを知り、有名な「欧洲の天地は複雑怪奇なり」という声明を残して総辞職した。
 チェンバレンと平沼の例では、力での現状変更を企図する国に対しては、いかなる条約も一夜にして紙切れに変わり得る現実を示しているように思える。国際司法裁判所の裁定を無視して九段線を維持し・歴史的にも他国領土である尖閣諸島を狙う一方で、北京五輪には日本に対して臆面もなく「信義」を言い立てる中国の例を待つまでもないだろう。日韓合意を平然と破る韓国にもその匂いが濃厚であるが、総理には「紙(条約)は火(武力)に弱い」現実を心に留めて欲しいものである。

 バイデン氏が攻撃されているのは、ウクライナ侵攻・併合を隠そうともしないロシアに対して、経済制裁しかしないことに因っており、「ウクライナへの武器供与はロシアの侵攻が起きた後」とするに至っては弱腰とまでこき下ろされている。プーチン氏は停戦合意という紙を信じて内戦激化という火を過小評価したアフガニスタン撤退を観て、バイデン氏が強硬策を採れない「弱い指導者」と見做しているともされている。
 日本も、お得意の”遺憾”表明など冷徹な国際関係にあっては何の役にも立たないことを学ぶ時期にあるように思うのだが。


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