熊本地震の被災地では、4万人を超える人たちが応急仮設住宅などに暮らす。何げない日常生活が一変したあの日から1年。支え合いながら、生きていく。
■乗り越える姿、見せたい 仮設団地のムードメーカー、女手一つで子育て・介護
貝崎加代子さん(49)は益城町の広崎仮設団地のムードメーカーだ。いつも住民の笑い声の中心にいる。
熊本地震で自宅が全壊。約2カ月間、駐車場で車中泊をし、6月に仮設団地に入った。仮設住宅の入居順は抽選だが、最も早く完成したこの団地の53世帯は、大半が長期の避難所生活が難しい75歳以上の高齢者や障害者がいる優先世帯。昨年末、若い貝崎さんは自治会の副会長に推され、仮設の「支える側」になった。
「人生のハードルは次々やってくる」と言う。11年前に夫と別れ、3人の子を一人で育てる。自転車を買うお金がなく、昼は熊本市南区の印刷会社まで2時間以上かけて歩いた。深夜は運送会社で働いた。睡眠は明け方1時間と昼の休憩時間。過労で意識を失い病院に搬送されたこともある。
昼の仕事に絞ったが、3年前、先天性の脳梗塞(こうそく)で寝たきりの次女、羅菜(らな)さん(20)の体調が悪化。介護のため仕事を辞めて以来、貯金を切り崩して暮らす。
長女の鈴菜(れいな)さん(24)は勤め先が被災したことなどから仕事を辞めて求職中。今春、大学を卒業した長男の秀哉(しゅうや)さん(22)は警察官を目指して勉強している。
見通せない仮設暮らしに子どもの病気や就職――。団地の外で会った知人に「ハードルを越えられない」と弱音を吐き、一人になると涙がこぼれる時もある。
それでも仮設団地の中ではみんなを支え、笑顔で冗談を飛ばす。
今月9日夜に地震があった時には、一人暮らしや高齢者宅をまわり、安否を確認した。日頃から声かけを欠かさず、一人暮らしの高齢者のインフルエンザにいち早く気づいたこともあった。「自分が支えられているので、皆さんのためにできることをしたい」と貝崎さん。親友の米野(こめの)淳子さん(54)は「加代ちゃんは頑張りすぎるくらい頑張るから」と心配する。
貝崎さんには今、大型自動車免許の取得という目標がある。2月に教習所に通い始めたが、仮免許の試験に落ち続けた。今月4日、自治会長の田原(たわら)八十八(やそはち)さん(83)に相談すると「あきらめるな。最後まで気を抜くな」と叱咤(しった)された。田原さんは「ここの住民はもう家族だから」という。
その翌日、7回目の挑戦で仮免許の試験に合格すると、真っ先に田原さんに報告した。仮設団地の駐車場で自家用車で練習してきた貝崎さんは「ひとつ壁を越えられた。すっごいうれしい」。18日には本免許の試験が控えている。
「子どもたちに壁を乗り越えられる力をつけてあげたい」との思いから、まずは自分が壁を越える姿を見せようと挑戦した大型免許。一番の目的は生活を立て直すことで、トラック運転手なら昼に羅菜さんを介護し、夜間は働ける。目的はもう一つ。「復興イベントに仮設の皆さんを送り迎えできるじゃないですか。皆さんには感謝していますから」
■仮暮らし、孤立防止へ続く見守り
熊本地震では、熊本県内に110の仮設団地が建設された。規模は4戸から516戸まで様々。最大の課題は元の住まいを離れ、地域から切り離されたことによる孤立を防ぐことだ。
熊本県では、訪れる人が増えるように集会場を温かみのある木造にし、規模が大きい62団地に計84棟を建設。個々の仮設住宅の南側に縁側を設け、住民同士が交流しやすい環境整備を図る。各自治体は生活支援相談員らを配置し、全戸訪問などで見守りを続ける。
それでも3月28日、益城町の惣領仮設団地(63戸)で、一人暮らしの61歳男性が部屋で病死しているのが見つかった。死後数日が経っていた。
自治会長の楠田登喜男さん(65)は「もっと早く気づけただろうか」と自問する。集会場では毎週のように外部の支援団体とイベントを開く。相談員の戸別訪問も週に数回入り、自身も日に3度は団地内を1周して住民と言葉を交わす。
亡くなった男性は地震で自宅アパートが全壊。近くの仮設に姉がおり、持病もあったという。イベントには顔を出さず、相談員の声かけに最後に答えたのは3月初め。エアコンの室外機が動きっぱなしだと気づいた住民が、楠田さんに伝えたのは3月23日夜。その日から新聞もたまり、声かけにも返事がない。28日、午前の相談員の訪問に応じないと聞いた楠田さんは町役場に連絡し、警察官が鍵のかかったガラス戸を破った。
団地では4月2日から毎日、各戸が「元気です」との意思表示のための黄色い旗を軒先に掲げている。男性の死はその準備の矢先。「経験を機に、よりつながりを深めたい」。町の仮設団地同士で課題を共有するために2月に発足した自治連合会を通じ、他の団地にも活動を呼びかけている。
各自治体は、約1万5千世帯に上る民間アパートなど「みなし仮設」への全戸訪問にも取り組む。市町村の枠を超え、元々いた住所地ではなく現住所の自治体が要支援者を見守る態勢づくりを進めている。
益城町の広安西小学校で4月2日、みなし仮設の入居者が集う「つながる広場」が開かれた。町の委託で活動する団体「よか隊ネット」が企画し、元は町に住む約610人が音楽や健康体操などを楽しんだ。
昨年12月に続く2回目。町内の自宅が全壊し、昨年6月から熊本市東区のアパートに一人で暮らす西村マサ子さん(64)は初めて参加。心臓に持病があり、9月初め、夜に急に苦しくなり自分で救急車を呼んだ。10月から約3カ月手術入院し、リハビリを続ける。
広場に来て、益城町で近所だった人が同じ東区で一人暮らしをしているのを知り、「お茶でも行けたらいいね」などと声を掛け合った。「いっぱい笑えて楽しかった」と笑顔だった。
よか隊ネットの高木聡史副代表(49)は「いろんな事情でここに来られない人もいる。つながれる機会を増やせるよう、考えていきたい」と話した。
■「先生」と生死分けた教え子
益城町惣領で亡くなった荒牧不二人さん(当時84)の自宅跡には14日、荒牧さんと一緒に建物の下敷きになりながら生き延びたカラオケ教室の教え子が花を手向けに訪れた。
井手幸代さん(63)は昨年4月14日の前震発生時、荒牧さんが自宅で開いていたカラオケ教室でレッスンを受けていた。マイクを握っていた時に突然揺れ、倒壊した家屋の下敷きになった。「一番に先生の名前を呼んだけど、助けようにも、がれきが自分の背中に乗って動けなかった」。荒牧さんから返事はなかった。
井手さんはその後、警察や消防らに救出された。「先生と一緒だったのに助けられず、本当に複雑な気持ちだった」と振り返る。益城町内の井手さんの自宅も全壊し、今は熊本市内のみなし仮設に住む。
荒牧さんのカラオケ教室には6、7年通っていた。最後に荒牧さんに習った曲は松原のぶえの「能登みれん」。地震後は、歌を歌うとどうしても涙が出る。それでもこの日、荒牧さんが大好きだったりんごジュースを自宅跡の祭壇に供え、「せっかく続けてきたので今後も歌わせていただきます」と報告したという。「1年を節目に、今から少しずつ歌っていきたい」
同じく教え子の光永ひとみさん(62)は「甘くすばらしい声で、話し好きの先生だった。まだ亡くなったことが受け入れられない」と話していた。
みなし仮設の住民らが集まった会場で行われた「笑いヨガ」
2017年4月16日 朝日新聞