旧優生保護法めぐる取材から
「ユウセイ」
2017年10月、さいたま支局から生まれ故郷の仙台支局に赴任した私は、以前仕事でお世話になった取材先にあいさつの電話をかけた。そこで言われた一言だ。「ユウセイの弁護団が結成される。いいときに来たね」。
はじめは何を言っているのか分からなかった。「郵政」? 「優勢」? 詳しく聞くと、どうやら「優生」保護法のことらしい。
世間からは、記者は何でも知っていると思われがちだ。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とはよく言ったもので、恥ずかしがらず基本的な事柄でも細かく問い質すことは記者として重要なことだ。しかし赴任してからまだ日が浅かったこともあり、地元の記者の間では、すでに自明のことなのだろうと思った。私は半ば知ったかぶりをして、話をそこそこで終わらせ、電話を切った。
しかしいったん電話を切った後、何か引っかかるものを感じた。取材先は「不妊手術」などと言っていた。
社用のノートパソコンを開き、毎日新聞の記事データベースで「優生保護法」と入力してみた。
中絶と不妊手術を可能にする法律で、1996年に現在の「母体保護法」に法改正されたという。なぜ改正されたのか。どうやら、旧法で障害者らへの強制的な不妊手術を可能としていた条項が「障害者差別にあたる」と判断されたかららしい。また、最新の情報として、知的障害のある宮城県内の60代の女性が県に情報開示請求し、17年7月に「遺伝性精神薄弱」(当時の呼称)を理由に15歳で手術を強制されたことが判明したというのだ。平成までこんな非人道的な法律が存在していたこと自体に素直に驚いた。
私は16年7月、相模原市の障害者施設で起きた入所者19人刺殺事件の取材に加わり、容疑者の交友関係や犠牲者の人柄の取材に奔走した。だから「優生思想」という言葉については知っていた。優生保護法の内容を知って最初にイメージしたのはナチス・ドイツの優生政策。まさか戦後日本にも同様の法律があったとは……。自分の見識のなさを恥じた。
2011年に岩手県の地方紙・岩手日報に就職し、毎日新聞へは14年9月に中途入社した。自分が言葉の出にくい「吃音」を抱えていることもあり、障害者を巡る社会的問題には大きな関心があっただけに複雑な気持ちだった。
「恥ずかしいけど、詳しく聞いておこう」
その日のうちに再び、取材先に電話をかけた。「提訴するのは、以前開示資料が出てきた60代の女性ですか」。答えは「イエス」。強制不妊手術をめぐって、当事者が国家賠償訴訟を起こすのは全国でも初めてという。続いて尋ねた。「この話は(マスコミには)もう出ていますか?」。答えは「おそらく出ていない」だった。
本当なのか。そうであればうまく記事にまとめれば社会面などで大きく展開できるかもしれない。そんな風に思い描いた。
「抜かれ」の不安抱え
このとき一番気になっていたのは、このネタを他社に先にスクープされることだった。いわゆる「抜かれ」だ。
こんな重要な話を、他社の記者が知らないはずはない。前任地のさいたま支局では、主に警察を担当していた。埼玉県は全国的にも事件が多い土地柄で、警視庁担当経験者をはじめ百戦錬磨の他社の記者に囲まれ、常に「抜かれ」におびえる日々を過ごしていた。自分が先につかんで取材を進めていたネタでも、機を逸して先に書かれることも少なくなかった。早く原稿として固めなくては。当初はその考えで頭がいっぱいだった。
スクープ合戦は、「読者置き去り」や「報道機関の自己満足」という批判もある。私自身も決して、典型的なスクープ記者ではない。ただ、それが、世の中に埋もれた事実を発掘する記者の特ダネ根性を支え、報道の大きな動機付けの一つとなることも確かだ。
スクープの期待と、「抜かれ」への不安を抱えながら、女性を支援する弁護士たちの取材に着手した。弁護団は30~40代の若手女性弁護士たちを中心に組織されていた。事務局長の山田いずみ弁護士は「私たちも法律についてよく分かっていないところがあるんです」と明かしてくれた。後に全国弁護団の共同代表もつとめる新里宏二弁護団長は「法廃止から20年以上(除斥期間)が経過しており、国の賠償責任を問えない可能性がある」と話し、主張の組み立てが難航しているようだった。
訴状の内容と並行して、当事者の60代女性の取材を進めることにした。弁護団からの紹介を通じて、本人の自宅で接触することができた。知的障害のある女性は自分の思いがうまく伝えられないため、義理の姉が同席し、取材に応じてくれた。
女性自身は手術当時の記憶はない。20代の頃、縁談があったが、手術を理由に破談となった経緯もあるという。姉はこの家に嫁いだ当初、義母から「(妹が)子どもを産めなくなる手術を受けた」と打ち明けられていた。このときの義母の悔しそうな表情が今も頭から離れない。姉は私に県から開示された資料のいくつかを見せてくれた。「遺伝性負因なし」などと記載されていた。姉は「手術を強制されただけでなく、手術理由も間違っていたのではないか。障害者を愚弄している」と激しい怒りをにじませていた。
ここで一つ疑問が生じた。優生保護法は障害者たちの意向とは関係なしに成立した。彼らの多くは自分の主張をうまく伝えられない人たちだ。ならば、法律の運用についても、ずさんに行われていたのではないか。提訴方針を伝える内容のほかに、別稿で女性のこれまでの人生の一端を描きつつ、法律の暴力性を伝えよう。記事にまとめる際のイメージが固まってきた。
女性は難しい話をすることはできない。「裁判にはどういう気持ちで臨みますか」。こんな質問をしても、満足な答えは返ってこない。ただ、繰り返し訴えたのは、手術後に患った卵巣嚢腫(のうしゅ)の痛みだけだ。「お腹が痛かった」。この言葉に彼女のこれまでの苦しみが込められているように感じた。
日常業務こなしながら取材
毎日新聞は旧法についてどれだけ報じてきたのだろうか。ふと、そんな疑問がわく。データベースを調べた。「優生保護法」という言葉が最初に登場するのは1948年6月23日付朝刊。「きょうの国会」という、その日議論される法案を紹介する欄に短く記されていた。それ以降、旧法を巡る報道は「中絶」が焦点となっていった。70年代に中絶の許可要件から「経済的理由」を削除することと、胎児の障害を理由に中絶を認める「胎児条項」を新設することの是非だった。
1997年にはスウェーデンなど北欧諸国で強制不妊手術が行われてきた実態が地元紙の報道で明らかになった。毎日新聞もその内容を報じたが、日本における手術の実態については記載がなかった。ハンセン病隔離政策を巡る被害補償では、優生手術についても議論されていたはずである。「先輩記者たちは何をやっていたんだ」。一瞬、頭をよぎったが、すぐに自分の間抜けさにも気づいた。自分は相模原の殺傷事件を取材するなど、障害者の問題には関心をもって取り組んできたはずだ。時代の最前線にいる自分のような記者でさえ、これまで優生保護法をめぐる事実を知らなかったのだから。
新聞記者は一般にイメージされるよりも地味な仕事だ。政治家や企業の幹部、捜査当局などに深く切り込み、権力の闇を暴くような華々しい仕事はまれ。まして地方支局は人員も少なく、調査報道よりも日々の小さなニュースを追うことで精一杯だ。
全国紙の場合、新人記者はまず地方支局に配属されることが多いが、事件・事故、高校野球など地域のスポーツ取材に忙殺される。自分の興味ある取材に割ける時間は限られるのが現実だ。
新人記者ではなかったが、私は優生保護法の取材を抱えながらも、選挙報道や事件・事故取材など日々の業務をこなし、なんとか記事を形にしようとした。取材に着手してしばらくは同僚にもネタについては話さなかった。どこから毎日新聞が動いているという情報が漏れるか分からない。おそらく、当時、私がどんな取材をしているのか支局のメンバーは全く気づいていなかっただろう。
「こういう原稿を出します。訴状の内容を今詰めているところです」。11月になり、ある程度予定稿ができた段階で、仙台支局のデスクに取材内容を密かに報告した。予定稿にはすでに分かっている大まかな内容だけを記していた。提訴時期や主張内容など細かい要素は「●(黒丸)」にとどめ、いつでもパソコンから更新できるようにしておいた。新聞社には日々新しいニュースが飛び込んでくる。1面や社会面など目立つ紙面を確保するためにはデスクをはじめ編集サイドとの調整が不可欠なのだ。デスクに打ち明けたことで気持ちが少し楽になった。仙台支局では東日本大震災の復興取材をはじめ、多くの話題がある。仕事をカバーしてくれた当時の支局員全員に感謝してもしきれない。
「被告は国」「憲法13条(幸福追求権)違反を前提に手術の違法性を問う」「ポイントは手術被害に除斥期間が適用されるかどうか」。弁護団に取材を重ね、予定稿を練り上げていった。「年明けには提訴する」。その確証を得た段階で、完成原稿を出稿した。11月末だった。
原稿を受け取った東京本社地方部の栗田慎一デスクは「本当にこんなことが許されていたのか」と驚いていた。社内で議論の末、12月3日付朝刊で記事が掲載された。テレビ、新聞ともほとんどのメディアが全国版で「追っかけ」記事を掲載した。取材開始から記事掲載まで、正直に言えば、胃が痛い日々が続いていた。特報の喜びより、プレッシャーから解放された心地よさのほうが大きかった。
調査報道へ
「次はどう展開するか」。スクープの安堵感に浸る間もなく、栗田デスクから電話がかかってきた。スクープは書いて終わりではなく、国民が考えるべき問題として社会に広めていく必要がある。旧法の問題点を社会に問うキャンペーンをはじめようというのだ。ここから、仙台支局が中心となって、「調査報道」へ着手していくことになる。
調査報道とは役所や警察などの当局発表に頼らず、自らの取材過程を通じて事実をあぶり出していく手法だ。まずは女性のケースのように手術を裏付ける資料がどれだけ残っているのか各都道府県に手術記録の保存状況を問うアンケートを実施した。記録が残っている自治体には、各地方支局の協力で全国一斉の情報開示請求を行い、法律の運用実態を調べるために資料を分析した。
国の統計資料によると、法施行から廃止までの約50年間に手術を受けたとされるのは約1万6000人だが、現在手術記録が残っていたのはわずか約2割の3596人だった(18年3月3日時点)。
開示請求した資料からは人道性が疑われる事例も次々と明らかになった。例えば、北海道、福島、滋賀など9道県で審査会が省略され、書面だけの「持ち回り審査」が横行。旧厚生省は、同法が禁じた「不妊のためのレントゲン(X線)照射」について、大学機関に研究目的ならば容認する通知を出していた。また、宮城県庁への直接取材で、残存している手術記録「優生手術台帳」から、県内で強制手術を受けた最年少は9歳の少女だったことも分かった。
手術被害者のほか、当時を知る存命の関係者にも聞き取り取材を進めた。かつて勤務していた病院で患者の手術認定に関わった精神科医の男性は「当時は何も疑問に思わなかった」と私に打ち明けた。また、入所者への手術を推進していたとされる障害者施設の元男性職員は「なぜ救ってあげられなかったのか」と涙をにじませながら悔やんだ。
「マスコミも加担」に葛藤
当時の状況を知る医師らから「マスコミも法律を黙認、推進していた。同罪ではないか」と非難された記者もいた。一部のネットメディアは優生保護法の推進には当時のマスコミが加担したとして追及を強めていた。たとえば、宮城県の強制不妊手術件数が多い背景には、当時、マスコミを含め官民連携で手術の徹底を掲げる県民運動を行った事実があったという。知的障害児が危険だとして、県内で収容施設の強化を求める毎日新聞の当時の記事も紹介された。記者たちは葛藤を抱えながら取材をしていた。
取材には青森支局の岩崎歩記者(現・東京科学環境部)や北海道報道部の日下部元美記者(現・外信部)、安達恒太郎記者(現・東京社会部)をはじめ、問題に関心のある若手記者たちが参画した。その多くが、私と顔見知りで年も近い記者たちだった。取材に参加した理由はさまざま。高校の授業で法律の問題点について学んだことがあったり、障害者問題に関心があったり、身内に障害者がいたり……など。キャンペーン報道の中心が地方支局だったこともあり、気兼ねなく参加できたのかもしれない。こうした調査報道の詳しい経緯や内容は『強制不妊 旧優生保護法を問う』にまとめている。
高まる関心、動く国
提訴方針の特報から約2カ月後の18年1月30日、女性は仙台地裁へ、全国初の国賠訴訟を起こした。女性の姉は記者会見で「社会に優生思想は残っている。だから提訴した」と強い口調で訴えた。会見には全国から多くの記者が訪れていた。強制不妊手術に対する社会の関心を改めて実感した瞬間だった。女性の初提訴をきっかけに、2019年4月時点で全国で計20人が各地裁へ国を相手取り訴訟を起こしている。
提訴後、事態は予想もしないほどの早さで動いた。18年3月には救済法提案を目指す超党派議連が発足。救済法は今年4月に全会一致で衆参を通過し成立、施行された。
ただ、救済法の内容については「お詫び」の主語が国ではなく「我々」になっていて責任の主体があいまいなことや、支給される一時金の額が原告要求額と著しく乖離していることなどから、当事者側からは「不十分だ」との声が上がっている。B型肝炎やハンセン病など、国賠訴訟では司法判断が出た後に、国が救済法を成立させているが、今回はその順序が逆転する異例のケースだ。
19年5月、仙台地裁で女性と、女性の提訴から約3カ月後に仙台地裁に追加提訴した飯塚淳子さん(仮名・70代)の裁判について判決が言い渡された。判決は、法律を憲法13条違反と判断したが、原告の請求は棄却した。司法からの満額回答を期待していただけに、当事者の間には落胆が広がった。
原告側は除斥期間の壁を回避するために、法廃止後も国と国会が救済を怠ったことを追及したが、裁判所は、「リプロダクティブ権(子どもを産んだり、産まなかったりする自由)を巡る法的議論の蓄積が少なく、関連する司法判断がなかったため、その必要性は明白でなかった」と判断した。手術自体の違法性についても、「除斥期間により問えない」と結論付けた。この判決には弁護団のみならず、少なくない法律家が疑義を唱えている。原告側は仙台高裁に控訴。法的責任に基づく国の十分な謝罪と補障を今後も求めていくつもりだ。
社会の蓄積あっての特報
強調したいことは、強制不妊手術の問題は毎日新聞が特報するまで全く報じられてこなかったわけではないということだ。毎日新聞の記者だけでなく、問題に関心を持ち継続的に取材を続けてきた他社の記者は少なくない。ただ、報道が散発的だったために大きなうねりを生み出すことができなかったのではないかと思う。
女性が提訴した背景には、飯塚さんの存在が大きい。飯塚さんは10代で手術を強制されたとして20年以上前から被害を訴える活動を続けてきた。飯塚さんの活動をニュースで見た女性の姉が、新里弁護団長に妹の被害を相談して、記録開示まで結びついたのだ。飯塚さんは県が手術記録を焼却処分していたために、提訴することができなかった。しかし村井嘉浩・宮城県知事が飯塚さんの強制不妊手術について「事実は争わない」と発言したことで追加提訴した。
研究者による調査や論文も存在していた。たとえば、東京大の市野川容孝教授や立命館大の松原洋子教授の著作などは取材する中で大きな指針となった。こうした社会に残る過去の蓄積があったからこそ、毎日新聞は継続的なキャンペーンを展開することができた。女性の提訴はこうした社会の蓄積を一気に展開させ、法律の非人道性を世に問うことになった。毎日新聞の特報はあくまできっかけに過ぎない。
若手記者の人権意識が原動力
強制不妊の問題が社会で自明のものとなったいま、旧法の非人道性に異を唱える人は決して多くはないだろう。だが、携帯電話(今はスマホだろうが)がない時代の生活を想像しようとしても難しいのと同様に、優生保護法が社会問題化する前の心理状態を思い出すことは難しい。今から2年前、旧法の優生条項について知っていた人はどれだけいるだろうか。法律の専門家やジャーナリストさえも、強制不妊の実態について知っている人はそれほど多くなかったのではないだろうか。だが、2年前でも法律の条文はインターネットで簡単に閲覧できたし、関連書籍は少なからずあった。
今回の報道は、権力の中枢に食い込み極秘情報をつかんできたという類のものではない。個人情報などを除けば、ほとんどの資料は公開対象で、記者に対して常に開かれていたものだ。
「なぜ平成までこんな法律が続いていたのか」
この疑問が取材班の抱えていた最大の問いであり、取材の原動力だった。誤解を恐れずに言えば、障害者への人権感覚が乏しかった時代を知らない若い世代中心の取材班だったからこそ、法律そのものを問う爆発力があったのではないか、と思う。取材班は私をはじめとして平成期に小中高時代を過ごした若手記者が中心だった。現に当事者が生存し、被害を訴えている。当時の価値観は現在と異なっていたから仕方ない、と片付けることはできなかった。
また、手術は地方を中心に行われてきた経緯がある。最も手術件数が多かったのは北海道、次いで宮城。東京や大阪の都市部にはほとんど手術記録が残っていなかった。キャンペーン報道は当初、仙台支局が中心となり行っていたが、一斉情報開示請求を皮切りに取材網は全国に拡大。積極的に取材に加わったのが平成期に義務教育を受けた支局の若手記者たちだった。都道府県庁という現場を担当する彼らによって、強制不妊の問題が宮城だけではなく全国に波及していった。全国紙としての取材ネットワークの強みが大きく生かされた。
以前から旧法の問題点を指摘してきた立命館大の松原洋子教授は、なぜ今になって優生保護法の問題がクローズアップされたのかについて、毎日新聞のインタビューに答えている。その理由の一つとして「人権意識に敏感な世代が記者の一線にたち始めた結果だ」としている。「96年に法律が母体保護法に改正された際、なぜ集中的に報道できなかったのかという批判もある。しかし、当時の状況では難しかったのではないか。例えば、日本が国連の障害者権利条約を批准したのは2014年。社会にノーマライゼーションの思想が徹底してきたのは実は最近だ」と付け加えている。
国が動く、仕事に誇り
「ジャーナリスト」と呼ばれると、どこか尻こそばゆい感じがする新聞記者は私だけではないはずだ。私は「毎日新聞」の看板がなければ何もできない会社員に過ぎない。また、先にも述べたが、記者の仕事は華やかなものばかりではなく、一連の報道でやってきたことは、何ら特別なことではない。たとえば、各自治体への情報公開請求は、担当課にどんな資料が保存されているのかあらかじめ問い合わせた上で、希望する資料の概要を書類に記入し提出するだけだ。それもかなわなければ、「旧優生保護法に関わる資料のいっさい」と記入すればいい。
手術の被害者とは、担当する弁護士と信頼関係を築いて、紹介してもらうことで接触できた。申請に関わった医師や施設関係者らは開示された資料に実名が書いてある場合もあれば、すでに論文や著作などで証言を残している場合もある。そうしたノウハウは、支局などで身につける基本的な取材手法だ。
マスメディアが主にネット上で「マスゴミ」などと呼ばれるようになって久しい。世間の耳目を集める事件報道となると、被害者の実名報道の是非を巡り、議論が巻き起こる。手術被害の取材では、少なくない当事者が匿名を希望し顔を出すことを望まなかった。だが、報道を続ける中で、「顔を出してもいい」と決心する当事者も出てきた。70代の北三郎さんは名前こそ仮名だが、18年12月17日付の毎日新聞朝刊で「素顔を出して、国と戦う」と顔を明らかにした。そうした当事者たちの勇気が社会にインパクトを与え、国や国会を動かしていく大きな原動力になったことは言うまでもない。
私を含め、SNSや動画サイトなどインターネット文化に親和性のある現在の若い記者は世間のマスコミ批判に敏感だ。新聞記者という仕事が本当に公益にかなうのか。そうした葛藤をもって日々の仕事に取り組んでいる若手記者も少なくない。だが、自分たちが報道することで国家が動き、当事者たちが自ら声を上げられるようになったことは、大きな自信につながった。リアルな実感を伴って自らの仕事に誇りを感じた。強制不妊手術を巡る記事のアクセス数は、事件や芸能ニュースなどには遠く及ばない。だが、今回のキャンペーン報道を通じて、優生思想の是非について社会に一石を投じることができたのであればこれほどうれしいことはない。
今回のキャンペーン報道で、毎日新聞は18年10月、日本新聞協会賞を受賞した。受賞理由は「負の歴史を検証し、被害者・家族の悲しみや医師の悔恨などを多角的に報じた一連の報道は、救済制度実現の動きにつなげた」。毎日新聞だけでなく、多くのメディアが強制不妊の問題について報道し、社会的議論を巻き起こした。メディアが被害者救済に大きな役割を果たしたことは間違いない。新里弁護団長は自身の弁護士像について「社会を変えるエンジンとしての役割がある」と語った。メディアも同様ではないか。書くだけで終わりではない。新聞記者は社会問題の解決に向けて「プレーヤー」となりうる。今ではそう実感している。
ところで、就職活動の現場では、記者を目指す学生は少なくなったと聞く。新聞やテレビなどのオールドメディアは斜陽産業といわれる。記者も会社員で、決して自由とはいかない。だが、今回のキャンペーン報道のように大規模かつ集中的に問題を報道・検証し、社会にインパクトを与えられたのは豊富な人員や取材ネットワークをもつ「組織ジャーナリズム」だったからだ。組織を動かすのは大変だが、いったん動いてしまえばとてつもない力を発揮する。「シンブン」もまだまだ捨てたものではない。
ネットメディアの興隆や情報通信技術の進化に対応して、取材方法や報じ方など、オールドメディアのあり方も変化していくだろう。それがどういう変化なのか、鈍感な私はうまくイメージできない。だが、時代の大きな変化をメディアという文脈の中で体感できると思うと、ワクワクしてくる。
※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号から収録しています。同号の特集は「メディアをめざす若者へ」です。
遠藤大志 毎日新聞仙台支局記者