「ふてほど」とコンプライアンス(法令遵守)からの生きにくい社会?(1)
( 我が家の夕餉 4/10 )
私の子どもの頃は「老人天国」だった
戸主・世帯主だった祖父は 家の中で 一家を支え取り仕切ってもいた
責任はあるけれど それにも余りあって 権利や言い分はハンパなかったように思う
私の祖父や父親たちは どんでもない言動をとることが多かったことを 今でも記憶している だけど 当時のその人たちにとっては その言動の拠って立つものが 何ら疑いようもなく常識だったのだ
それから
100年、50年と経ていくうちに
それらの不適正さが
世論やマスコミ、教育現場などで
いろんな場面で繰り返し指摘され
それらの不適切な社会通念を
改善するよう訴えられたりして
それらの主張が 男社会にも
少しずつ受け入れられてきた
不利益な立場が見直されず
不条理な欲求を拒めないで
歯噛みをしてきた人たちからすると
その改善や改良の歩みは遅々として
イライラとした焦燥感が募るばかりだと思うが 時間はかかったけれど
振り返れば ようやく現在の改善された段階には至った
いろんな格差や差別の解消に
早くから取り組んでいるアメリカでは
その改革のスピードが余りに早いので 今まで安泰な立場にあった人達からは 悲鳴に似た声が聞こえている
男女間格差問題、人種間の差別問題
急増する移民(不法者を含む)の問題
拡大する経済格差問題、性的少数者をめぐる問題など各種の格差を解消する試みの先進国アメリカでは 行き過ぎた(と、従来利益を得ていた人たちがそう考える)政策を 今一度見直して
両者の立場と利益を勘案して欲しいと 訴える声も聞こえてくる
いわば「過ぎたるは及ばざるが如し」という主張だ
ただ 不利益を被ってきた側からすると その改革のスピードは遅い位だと感じ その内容もまだ不十分だと思っているかもしれず 両者の隔たりは なかなか埋まらないかもしれない
今の常識は
いつも正しい合理的な常識であるとは 必ずしも言えないのではないか
だから 以前の常識の多くが 今は否定されているように 現在構築されつつある常識も 50年先、100年先も
適切な常識であり続けるかどうかも
確約はできないだろう
ただ 言えることは今、現在の社会で
辛く悲しい思いをしている人たちが
背負わされた荷物を減らし 負担感を無くしていく営みは やめてはいけないだろう
《と ここまで書いていて うちのカミさんが「そろそろトイレから出て欲しいんだけど」と 悲鳴に似た声を出したので カミさんを辛い目に合わせていることに気づいた私は 慌ててトイレから出たのだった》
ps 2024.3.29〜4.14 草稿
熊本地震(前震)の日に(あれから8年目)現在の「常識」は たとえ最新であっても 未来においては 更にアップデートされて「非常識」だと認識されるかもしれない?
ps 2
宮藤官九郎さん演出?の「不適切にも程がある」は ドラマなので やや大袈裟にドラマチックに「不適切なこと」を取り上げているが 昭和の当時の実態は そう違わなかったのではないか?また 現在放送中の朝ドラ「虎に翼」も やや誇張気味だとは思うが これも 現実はそう変わりなく あるいはもっと酷い言われようをされた人も 数多いかもしれない
私の妻は そのドラマを見ながら「そうだ!そうだ!」と言いながら 怒りも込めて?画面を食い入るように?観ている そして 妻は 夕飯時に実家(私の)でのイヤだったことや辛かったことを 目の前の私がさも親の仇であるかのように 激しく主張、吐露?追求?するのです😅
でも、でもね、私にも 私ら男にも
ちょっと述べたいことがあるのですが‥😥このことについては 後日にでも述べるとしましょう(反論ではなくて 感想や意見の類ですが‥😅)
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