川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

現代川柳『泥』・・・ミミズを考察 E

2008年01月20日 | 川柳
            現代川柳『泥』ミミズを考察

   ミミズという生物は土の肥えたところで餌を求め、雌雄同体だという。

 閑人で、川柳などという風流なことに手を染めている私にとって、ミミズからも学ぶことは大きい。

 人間の置かれた棲む場所が、荒地であっても、整地された土地であったとしてもまずは、その土壌が良質なものか、見せ掛けの土壌なのかを本能的にキャッチすることは大切なことだと思っている。

 「良質な土壌」へ「土壌」へと向かいたい性は、万人にとっても共通のものだろうとも思います。

 雌雄同体などという生物は外にもいろいろあるようですが、人間も「男」「女」で構成された地球の市民生活。そして文化、歴史。いろいろ。

   男性も女性も二つの人間を同時に生きれたら、何と面白いことでしょう!!

 今日は、男になろうかなあ・・!今日は女になろーっと!と、どらえもんにでもお願いしたい「どこでもおとこ・おんな」。ブブーン・・。タケコプター!!

      「そんなのは出来ないよー!・・のび太くーん!」どらえもん。

       急に脱線しましたので、またミミズのお話に戻ります

 2005年1月新年句会の函館ロイヤルホテル柏木で、句会も終わり、宴会に入ったとき、さとし氏にご挨拶にうかがったことを思い出します。

 「くらげあわあわ僕の心肺機能かなって、本当に男性の本質を描いていますね・・これから「泥」を私のバイブルにします!」と唐突に言ってしまいました。

           けれどお相手は「大器(おおうつわ)」。

 さとし氏は一瞬からだをぐらっ!と揺らしながらも、冷静に「そう言っていただけてありがたいですよ・・」と静かに微笑まれした。

    人間の雌雄は、どっちも「弱くて」「強い」生き物だと思います。

 日本の男性は、武士道の歴史を持つ、「強い男」ということばに飼い慣らされたある意味、生まれたときから鎧をかぶらされる、マインドコントロールの中で育って行きます。

     私が男性なら・・「強いってなーに?」と聞きたいものです。

 まずは、「本当の強さ・・の意味を理解して、子育てをしなければ形ばかりの強い男性を社会に創出し続けなければなりません」

 逆に、「女性なのだから・・」で、何かと言われながら育つ「女性観」も、「女性とは何なのか・・」と、少しくらいの知識と知恵を働かせて子育てをしなければ、このグロバール社会の経済活動の荒波をこいで行く人生と、ミスマッチしてしまうのではないでしょうか・・。

 今、男女共同企画参画社会などと言われますが、こういうネーミングがなければ意識づかないこの「日本」。日本女性の置かれた地位は、世界の20位を下るというのですから、「貝原益軒」の「女大学」教育のあとしまつは大きい。

 女大学は、すべて男性上位に作られた、儒教の本来の教えを改ざんした女性教育でした。

 貝原益軒さんも、自宅の畑いじりでもしてミミズでも観察して「日本の100年後にあるべく男女のありようを川柳的な発想で教義をつくっていただきたかったものです。」

         自然界は無言の教義ではありませんか。

 

              

          



 
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泥酔三態・・・容子・テイ子・さとし

2008年01月19日 | 川柳
          現代川柳『泥』終刊号の編集を終えて
 
   場所は、小粋な居酒屋たなか(伊達)の奥座敷

 「泥」終刊の編集を終えて、どーっと夜の巷へ・・・美女ふたり?と野獣一匹。終えた、終えた、泥。喉越しのビールの旨かったこと。格好の餌食「泥」したたかに酔うた。

 酔うほどに雫れる真実と毒舌を拾い集めて、折り句にウィンクしていた。

               三態の真髄か。

 この自信と錯覚がなかったら、「泥」と心中することなんて出来なかった。とにかく苦しかった。面白かった。最高に愉しかった。泥にまみれて、泥よ、泥。


よ・・・う・・・こ   

よ もすがら 憂 さ こ ろころとこぼれ萩         テイ子
よ くできた 浮 き名流れて コ ンチクショウ      テイ子
酔 い候 う いういしくて こ ぶし咲く         さとし
喜 びを う すむらさきに こ ぼす花          さとし

テ・・・イ・・・子   

手 を抜けて 一 気にひかる 骨 董品          容 子
天 井の い びつな穴へ こ ぼす憂さ          容 子
て におはを い つも転がす 小 半時          さとし
天 からの 遺 書るいるいと 木 の芽どき        さとし

さ・・・と・・・し   

錯 覚か と なりの庭は 死 に上手           容 子
五 月雨や と ぼとぼとぼと 詩 人たり         容 子
寒 い朝どうーっ と しがらみ 死 んじゃった      テイ子
さ あ乾杯 と うとう泥が 染 みついた         テイ子
  
                        2004・10月











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北海道現代川柳『泥』終刊号。ご挨拶。

2008年01月18日 | 川柳
        2004・10月現代川柳『泥』終刊号

               散 隔 情 誼

            
                    

 ◎「泥」は私にとって一体何だったのだろう。読者にとっては何だったのだろう。今のところ答えらしい応えは出ていない。おそらくこの先も出せぬままかも知れないし、ジワーッと少しずつでも分って来るような時が巡ってくるかも知れない。自己満足に始まり自己満足で終わったとしても、三年間書けないなりに書き、創れないなりに創った六冊の健気さと、最高の読者に支えられていたことを誇りたい。本当にありがとうございました。
                               (容 子)

                    

 ◎無謀とも思えるような、三人だけの柳誌「泥」との三年間を通して、手に残ったものに何があるだろう。
 そんなことをつらつら考えながらの「泥」最終号の編集であった。危険をあえて冒すことの魅力、これはもう実際に体験したものでなければ実感できない。
 人間という生き物は、不思議なもので環境に適応する自在性を持っている。
 しかし、やがてそれが一種の慣れとなり惰性へとつながる危険性を持っている。ご支援に感謝。 (さとし)
                  
                    

 ◎「泥誌を手元に置いて、漂として読んでいます。」遠くから届くエールが、何よりの起爆剤となって、泥を続けてこられたように思う。傍観者なしのスタンスは責任がいつも伴う。泥に拘りながらきた歳月は緊張と不安と喜びの連続だった。花ある言葉にも出合うた。嬉しいとも、ありがたいとも思う。川柳に対する思いが充分に消化しきれたのか、の自問は続くが、不完全燃焼でもいい。惜しまれて、いま終えることができるのは、無常の歓びであり、この至福を神に告げようか。          (テイ子)


                 


    
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翔ぶ勇気・・・池さとし

2008年01月17日 | 川柳
               現代川柳『泥』終刊号

 作者にとっては、快感とも思えるような混乱や無秩序が、読者には理解を超えた位置での混乱や無秩序となるがために、拒絶反応を起こすことになる。

 作り手にとっては、作者自身のたましいや精神状態の表現こそが、癒しの場になっているのだが、読者にはとても理解しがたい混乱の場となり、作者と読者の「癒し」の価値観が一致しない矛盾を生じることになる。

 現実を基底にしながらも、そこから遥かなる一条のひかりを追い求める姿勢や心情にこそ、深層心理の結実は見えてこようというものである。

   作者は、苦悶し開拓しながらせり上がって行く。それが止揚に繋がる。

 このひとつの過程こそが癒しそのものなのだが、吐き出されたあるいは創りだされた作品は、作者の叫びが強烈であればあるほど、狂気までとはいかないまでも、ほぼそれに近い状態にある。

 安らぎ、ユーモア、癒しなどを川柳に求めている読者との隔たりは、この座標軸の決定的な違いによるものであろう。

              マチスは、こう言っている。

(私が夢想するのは、人を不安にし気を重くさせるような主題を持たない。あらゆる精神労働者にとって、なぐさめの効果をもったもの、精神鎮静剤のようなもの、いわば肉体的疲労をいやす座り心地のいいひじかけ椅子のような芸術である。)

 しかしマチスの描いた絵は、野獣派そのものの絵であり、決してすわり心地のいいひじ掛け椅子などと言うものではなかった。

 当然といえば当然かもしれない。作品はマチス自身の魂の表白でもあると受け止められるからである。

          川柳もまた、これと同位相にある。

 これは、過去から現在そして明日へと続く重い枷でもあり、21世紀の川柳もまたこの歴史を確実に刻み込んでゆくに違いない。

 それにしても、考えれば考えるほど深みが増してくる川柳であることは間違いない。
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翔ぶ勇気・・・池さとし

2008年01月16日 | 川柳
               現代川柳『泥』終刊号

 川柳が愛されていると考える、ごく常識的な一面は、
             およそ次のような事なのではないだろうか。

 ひとつの作品と出会った読み手が、ある特別な感動や喜びを感じ取ることで、精神的な高揚感を得られたとき、また、今までとはちがったものの見方・考え方に思考操作の変容が感じられた時。

         その裏返しに書き手のこころが存在する。

 しかし、書き手と読み手との気持ちの合致点はとなると、一筋縄ではいかない難しさが横たわる。

 私はつねづね、川柳は癒しの文芸だと思っているのでそれを素材にしながらその解明を
してみることにする。

 川柳には、川柳としての「かたち」「味わい」「リズム」「バランス」「風刺」「韻」などが、ひとつの概念として川柳に携わる人達にインプットされている。

(ごく少数の読者を除いては、作り手イコール読み手であることをはっきりしておかなければ、大衆川柳というコトバに惑わされてしまうだろう。)

 もちろん一様ではないにしても、それらの概念や観念が読み手の受け皿となる。

 したがってこれらの秩序が保たれ、均衡のとれている作品は、当然のことながら受け入れられ易いという現象を生むことになる。

 その一方で、受け入れ難い作品はとなると、これにプラス作者自身のたましい、作者自身の独自な精神状態が一層強く加わるからであろう。

 言うまでもなく、作者自身の独自な精神状態とは、突き詰めると狂気にさえなりうるような、強靭さを孕んでいるものである。

                          続く・・・。
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翔ぶ勇気・・・池さとし

2008年01月16日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 川柳だけに限ったことではない。文学は溌剌とした精神の若さにこそ存在するということを、明確に意識するべきである。

 常に前へ前へ進む気概・姿勢なくして、今日の川柳を語ることは出来ないのではなかろうか。
 
         既存の思考や手段、枠組みを否定するわけではない。

 むしろ、それらの諸要素を十分認め、かつ咀嚼した上でそのことをベースに、更なる積み重ねをする。

 あるいは又、その枠の外に飛び出してみる勇気も、これからの川柳界には、一層必要になってくるような気がしてならない。

 つまり、川柳をつくるという行為は、非常に数多くの反省的思考を繰り返しながらも、その場に定着をきめこむのではなく、未来へ向けての情熱を象徴的に発信していくひとつの証でも言い表せるだろう。

 カオスの状態、そんな中からの萌芽はというと、やはり開拓、発見というような人間の本能的な闘争心の発露があってこそ、確立されてくる。

          川柳という十七音字の短詩の世界。

   音楽の世界にいろいろな分野があるように、川柳とて例外ではない。

 千差万別と表現してもいいくらいの、様々なかたちの川柳が毎日量産されている。

 さまざま傾向の川柳が存在するのは、当然のことであり、お互いにそのことを充分認め合って今の川柳界は成り立っている。

               言うなれば共存であろう。

   21世紀の川柳などと言うと、何か非常に大袈裟に聞こえるが、

    コトバを変えると「現在を生き抜く川柳」と言うことでもある。

 川柳の働きには、いろいろなファクターがあり、そのいずれかと、川柳人は深くかかわり合いを持ちながらの日々である。

                            続く・・・。
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私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月15日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 その四

   多様化、という言葉が、何の抵抗もなく使われるようになって久しい。

 当然のように、川柳の世界においても、この現象は年々歳々進んでいるような気がしている。

 その結果、作品はより個人的になり、細分化してきて、全体として川柳を取り上げたり、ひとつの方向へ向けることは難しくなってきている。

 近年では、どう作ったか、どう読んだかと、作者にしても、読者にしても個人の内部へと視点が向けられ、個人がひとつの単位になっている。

 自由に私川柳を作りたいという欲求と、作品とそれを生んだ人間とは一体でありたいという願望もその表れだと思う。

 また最近の大会などにみられるカリスマ選者の存在もそうだろう。こうした選者に共通しているのは、自身が自らに課しているその人のものでしかない姿勢や部分、あるいはその人がその人であるという絶対的な思考(魂)つまり、この魅力を持っているということだ。

         作者は個として、選者の個へ問いかけたいのである。

 多様化とは、ある意味で量より質への拘りなのかも知れない。

 少人数の大会や小単位の同人誌が益々増えてくることが予想される。人と人との、個と個との結びつきがそれだけ強くなっていくだろう。

    「泥」という小さな誌が、無事終刊を向かえられたのは、
     そうした強い結びつきに支えられていたからである。
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私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月15日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

その三

       「泥」から北海道を感じると言って下さった方がいる。

 誌全体に漂っている重さ、硬さ、それと相反する、おおらかさにそれを感じたという。
思ってもいない感想である。

 北海道でも、南部に位置している、比較的気候の温暖な、函館、伊達、苫小牧の三人の作品のどこに北海道が内在していたのだろう。

 マスメディアの進化は徐々にローカル色を希薄にしている。風土を感知させる作品は、川柳に限らず少なくなってきている。

 国木田独歩は北海道を、大自然の中を渡っていく時雨のすさまじい淋しさを、日本文学も、日本の自然にも、無かった新しさと表現した。

 しかし、わたしたちは、すさまじい淋しさと同時に、大自然を覆い尽くす吹雪の怖さや厳しさも知っている。

 そして、その中で生きるか、死ぬかと戦ってきた父祖たちの、したたかな血を受け継いで生きている。

 本州の平明さは、本州の歴史や風土が築きあげたものである。北海道とは比べものにならない永々とした歴史が、歳月に濾過されて、あの表現を培った。

 北海道のゴツゴツした硬さを誇りたい。北海道という土地が、日本の歴史の中では例を見ないかたちで、作り拓かれたものなのだから。

 そして、無限の怖ろしい力が、自然の美しさを極めていることを知っているから。

                             続く・・・。
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私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月14日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 その二

         映画を観て思い切り感動したいと時々思う。

 それもグシャグシャになってしまうくらい泣けるものか、そうでなければ、顔がグシャグシャになってしまうほど笑えるものを。

 しかし、思いっきり感動したくて川柳を読もうとは滅多に思わない。けれど感動させられる作品との出会いは確かに何度かあった。
  
       夢中になって句を創りたい、と思った日は余り無かった。

    正直に言えば、締め切り日が迫っているから創っていたような気がする。
       
 反面、作りたい意識はいつも頭の隅にあって、気になっていたことは事実である。

 おそらく30年以上も関わってきた、一種の習性のようなものが、身についていたからかも知れない。

         川柳に夢中になっていたと言えば、嘘になる。

 夢中になれなかったから、今も、こうして続けているのではないだろうか。

 例えば作品が歪な壺と言われようが、皿になってしまったと思われようが、それらは、わたし自身である。

 創られた作品はわたしのほんの一部、だから、わたしのすべてを表白したなんてことは言えない。

         創ることや書くことをいつも辛いと思っている。 

     でも、いやいやながら創ったり、書いたことは一度もなかった。

      書くことは、なんと残酷で、そして楽しいことなのだろう。


                           続く・・・。
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私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月14日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 その一
    こんな笑いがある。

 巨匠と言われている陶芸家が、窯から出したばかりの絶品の皿を割っているのを見て、その弟子たちは驚き、訳を聞くと、「わたしは、皿を創ったつもりはない、壺を作りたかったのだ。」と言ったという。

 皿と壺では全くかたちが別である。壺の微細に拘り、それを割るのなら理解できるのだが・・

              だから、笑い話なのである。

 しかし、この嘘か本当かわからないような話は、日常、割とあり得ることではないだろうか。

 例えば、巨匠の創ろうとしていた壺を「言葉」に置き換えてみよう。

 伝えたかったことばが、そのまま伝わらなければ、それは歪な壺と同じことになる。
また、壺でなくて皿になって相手に伝わってしまう場合だってある。

        「わたしは、そんなつもりで言ったのではない。」と。

 確立されている一語に潜む曖昧さ、それを繋げることで生じる別のイメージ。そんな言葉(壺)になれなかった皿を粉々に割ることができたら、どんなにスッキリするだろう。

                              続く・・・。
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