おまけ。
お向かいの孫姫様。
5年前の過去ログである。
幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶である。
あの悲惨な戦争を知らない世代が、ほとんどになってしまった。
知らないままに、政治が行われている恐ろしさを、今こそ、思いしめなければならない。
戦後、一時、盛んにマスコミを賑わした言葉である。
数の子のことである。
技術革新とか、高度成長とか、日本が、豊かになり始めたころで、人々は、盛んに、高い、高級品に手を出し始めた。
数の子もそんな品物の一つであった。
正月のお節料理には、必ず、大きいのが乗るようになった。
しかし、mcnjは、ある時期まで、見るのも嫌であった。
戦後、しばらくの間は、嫌となるほど食わされた。
そんなものしかなかったのである。
むろん、料理に使われる様な、高品質なものでは無い。
ものすごくしょっぱくて、歯が立たないほど固いものであった。
たぶん、戦争中の兵隊たちに食べさせるための、保存食だったのだろう。
戦争が終わって、その必要がなくなったために、放出されたものだった。
数の子のほかの放出品と言えば、干し芋であった。
薩摩芋を干したもので、松本では、いも干しと言っていた。
これもものすごく硬いもので、相当長時間、舐めてからで無いと、噛めない代物であった。
しょっぱい数の子ほどは、まずくはなかったが、これも、最後の方では、飽きてしまって、見るのも嫌になってしまった。
どちらも、米俵に入れられて、馬車や、人の引く荷車に乗せられてどこかへ運ばれて行った。
そんな荷車が来ると、近所の悪童どもは、手伝って押してやる振りをしながら、俵の隙間に指を突っ込ませては、ひっかきだしていた。
二つ三つ引っ張り出すのが、精一杯であったが、悪童どもは、戦利品をもって、どこかへ消えて行った。
mcnjも、分け前にあずかって、食べたものであった。
何度、同じことをやっても、運搬者から、叱られたことはなかった。
たぶん、運搬者の仕事は、所定の場所へ運んで行くだけで、中身の管理は、自分の責任では無いと、理解していたのであろう。
悪ガキどもにとっては、いい、おやつであったに違いない。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。
昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。
朝日新聞の日曜版の記事である。
数年前の記事あるが。
画像が悪くて、お読みいただけないが、朝日新聞日曜版、デジタルで検索して、是非お読みいただきたい。
新天地を求めて満洲帝国建国に走った、男たちの、理想と挫折の物語を、長谷川一夫主演の映画、清水の次郎長の血槍富士に
重ねて解説したものである。
満洲帝国の実質的指導者、甘粕中将と、No.2の岸信介。
日本の敗戦濃厚となると、岸信介は、軍用機で日本本土へ逃れるが、甘粕は、敗戦を知り、拳銃自殺を遂げる。
岸は、極東軍事裁判にかけられるが、商工相時代、軍部が、満州の資源を、本土へ運んで、戦争には使うように強要した時に、
満州国の資源は、満州国のために使うべきだと反対したことが評価されて、罪一等を免じられ、絞首刑を免れて、禁固刑で、
巣鴨刑務所に収容された。
刑期を終えて、風呂敷包み一つを抱えて、出所して、不安そうに周囲を眺めている姿が、週刊誌に乗っていた。
後に、安倍晋太郎は、岸の女婿となった。
晋太郎の息子、晋三は、岸信介DNAを受け継いでいるといっても、過言ではなかろう。
暑いですね。
長梅雨が開けて、もう、10日以上も、猛暑の夏が続いております。
長梅雨の前から、鈴鹿山脈の山の端は、雲の中でした。
もう、2ケ月近く、綺麗な落陽は見ていません。
カンカン照りの日の夕方、定点観測に出かけてみましたが、案の定、山は雲の中でした。
こんな夏の雲も見えるのですが。
直ぐ横には、夕立雲もありました。
降ってくれるかと思いましたが、こちらまで来ないで、通過してしまいました。
猛暑の夏の2ニャんです。