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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

戦後75年の記憶、黄色いダイア(過去ログ)

2020-08-25 12:00:00 | 学問

5年前の過去ログである。

幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶である。

あの悲惨な戦争を知らない世代が、ほとんどになってしまった。

知らないままに、政治が行われている恐ろしさを、今こそ、思いしめなければならない。

 

 

戦後、一時、盛んにマスコミを賑わした言葉である。
数の子のことである。
技術革新とか、高度成長とか、日本が、豊かになり始めたころで、人々は、盛んに、高い、高級品に手を出し始めた。
数の子もそんな品物の一つであった。
正月のお節料理には、必ず、大きいのが乗るようになった。

しかし、mcnjは、ある時期まで、見るのも嫌であった。
戦後、しばらくの間は、嫌となるほど食わされた。
そんなものしかなかったのである。
むろん、料理に使われる様な、高品質なものでは無い。
ものすごくしょっぱくて、歯が立たないほど固いものであった。
たぶん、戦争中の兵隊たちに食べさせるための、保存食だったのだろう。
戦争が終わって、その必要がなくなったために、放出されたものだった。

数の子のほかの放出品と言えば、干し芋であった。
薩摩芋を干したもので、松本では、いも干しと言っていた。
これもものすごく硬いもので、相当長時間、舐めてからで無いと、噛めない代物であった。
しょっぱい数の子ほどは、まずくはなかったが、これも、最後の方では、飽きてしまって、見るのも嫌になってしまった。

どちらも、米俵に入れられて、馬車や、人の引く荷車に乗せられてどこかへ運ばれて行った。
そんな荷車が来ると、近所の悪童どもは、手伝って押してやる振りをしながら、俵の隙間に指を突っ込ませては、ひっかきだしていた。
二つ三つ引っ張り出すのが、精一杯であったが、悪童どもは、戦利品をもって、どこかへ消えて行った。
mcnjも、分け前にあずかって、食べたものであった。
何度、同じことをやっても、運搬者から、叱られたことはなかった。
たぶん、運搬者の仕事は、所定の場所へ運んで行くだけで、中身の管理は、自分の責任では無いと、理解していたのであろう。
悪ガキどもにとっては、いい、おやつであったに違いない。


戦後75年の記憶、血槍富士(過去ログ)

2020-08-23 12:00:00 | 学問


70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

朝日新聞の日曜版の記事である。

数年前の記事あるが。

 

 

 

 

 

画像が悪くて、お読みいただけないが、朝日新聞日曜版、デジタルで検索して、是非お読みいただきたい。

 

新天地を求めて満洲帝国建国に走った、男たちの、理想と挫折の物語を、長谷川一夫主演の映画、清水の次郎長の血槍富士に

重ねて解説したものである。

 

満洲帝国の実質的指導者、甘粕中将と、No.2の岸信介。

日本の敗戦濃厚となると、岸信介は、軍用機で日本本土へ逃れるが、甘粕は、敗戦を知り、拳銃自殺を遂げる。

岸は、極東軍事裁判にかけられるが、商工相時代、軍部が、満州の資源を、本土へ運んで、戦争には使うように強要した時に、

満州国の資源は、満州国のために使うべきだと反対したことが評価されて、罪一等を免じられ、絞首刑を免れて、禁固刑で、

巣鴨刑務所に収容された。

刑期を終えて、風呂敷包み一つを抱えて、出所して、不安そうに周囲を眺めている姿が、週刊誌に乗っていた。

後に、安倍晋太郎は、岸の女婿となった。

晋太郎の息子、晋三は、岸信介DNAを受け継いでいるといっても、過言ではなかろう。

 


鈴鹿山脈の洛陽、2020.8,中旬、2ニャんの近況

2020-08-22 11:54:10 | 学問

暑いですね。

長梅雨が開けて、もう、10日以上も、猛暑の夏が続いております。

長梅雨の前から、鈴鹿山脈の山の端は、雲の中でした。

もう、2ケ月近く、綺麗な落陽は見ていません。

カンカン照りの日の夕方、定点観測に出かけてみましたが、案の定、山は雲の中でした。

 

 

 

 

 

こんな夏の雲も見えるのですが。

 

 

直ぐ横には、夕立雲もありました。

 

 

 

降ってくれるかと思いましたが、こちらまで来ないで、通過してしまいました。

 

猛暑の夏の2ニャんです。