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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

戦後75年の記憶、刀狩り(過去ログ)

2020-08-21 12:00:00 | 学問

4年前の過去ログである。

幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶である。

あの悲惨な戦争を知らない世代が、ほとんどになってしまった。

知らないままに、政治が行われている恐ろしさを、今こそ、思いしめなければならない。

 

日本が降伏して、

しばらくして役所から通知が来た。
進駐軍からの命令で、武器を隠し持っていてなならない。
提出せよ、とのことであった。
後で、武器の有無については、進駐軍が捜索に入って確認すると言うものであった。

父の曽祖父は、松本藩の下級武士で、藩士で有ったため、脇差を持つことが許されていたらしい。
その刀が、代々伝わっていた。
戦争中の金属の供出の時も、難を逃れた刀であった。
普段は、床の間に飾ってあった刀であったから、近所の連中の目にも止まっていたはずである。
父が隠し持っていたにしても、タレこまれたらそれまでであったと思う。
それが無かったと言うことは、おそらく、軍部は、本土決戦に備えて、戦力になる様なものを、温存したかったのではないかと
考えられる。
戦時は、女達は、竹槍を構えさせられて、訓練されていた。
戦争が終わっても、その竹槍は、物干し竿の代わりに、置いて有った。
進駐軍の命令は、そのような武器とか、刃渡り何センチ以上の、刃物は、所持してはならないと言うものであったらしい。
もちろん、鉄砲なども同じであった。

父は、このような命令におとなしくしたがって、所定の寸法に、鍛冶屋で切断してもらった。
実際には、家宅捜索の様なものは無かったが。
進駐軍の活動と言うものが、余程恐ろしかったのであろう。


戦後75年の記憶、威嚇飛行(過去ログ)

2020-08-19 12:00:00 | 学問

もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

5年前の過去ログである。

幼い昭和の戦争の語り部の記憶である。

 

日本の敗戦から、1週間も経たない頃であった。
米軍の飛行機が、盛んにやってきて、威嚇飛行が始まった。
地上軍を進行させるには、勝った米軍としても、時期尚早と考えたのであろう。
不測の事態を避けたのであろうか。
圧倒的な戦力の違いを国民に見せつけて、戦意を消失させようとの、戦略であったろう。

実際威嚇飛行が始まって見ると、彼我の戦力の違いは、一目瞭然で有った。
ジェット機は来なかったが、同じプロペラ機でも、ゼロ戦とグラマンの違いは、圧倒的であった。
これでは、いくらゼロ戦のパイロットが優秀であっても、勝てるはずが無いことは、誰の目にもわかった。
日本人の戦闘意欲、反米意識は、急速に失われて行ったようであった。
しばらくは、教室での授業の声が聞こえなくなるほど、頭上近くを、米軍機が超低空で飛び回っていた。
戦闘機ばかりでなく、中には、爆撃機も参加していた。
見たこともない、その機体の大きさには、度肝を抜かれた。

やがて、どのくらい経ったのかは、覚えていないが、松本にも進駐軍が進駐してきた。
米兵の図体の大きさには、また、たまげたものであった。

 


戦後75年の記憶、教科書(過去ログ)

2020-08-17 12:00:00 | 学問

もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

終戦になり、戦前、戦中教育は終わりを告げた。
このことは、過去ログ松本開智学校でもとりあげた。↓
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d939cd0f1dc9ff23424ba916c1514266&p=1&disp=50

mcnjが2年の時、敗戦となった。
進駐軍が進駐して来ると、日本政府の教育方針の間違いが指摘され、教科書が訂正された。
訂正と言っても、書き直したり、再発行されたわけではない。
今まで使っていた教科書の、都合の悪い所だけ消して使えと言うのであった。

昨日まで、教師が、ここは大切なところだから、良く、覚えよ、と言って教えていた所を、ここは、間違いである。
消せ、と言うのである。
授業中に、硯で墨をすらせて、教師が消す箇所を読み上げ、生徒が筆で、その通り消すのである。
mcnjは、四男坊であったから、教科書は、上から払い下げて、順番に使わせられていた。
自分の使っていた教科書は、自分で消して使ったが、何年か後では、もう、修正された教科書がつかわれるようになった。