梅雨が明けて、ハナ立ち見、太陽の日差しをいっぱいに浴びて、喜んでおります。
高砂百合の一番花。
究極の不届き者です。
この辺は、土木作業員や、住居新築、改築工事、取壊しの作業員が多いところですが、この日は、
日曜日でしたので、北勢バイパス工事は休みでした。
恐らく、この辺の新改築高次脳機能作業員が、コンビニ弁当を食べて、帰りに捨てていったものでしょう。
梅雨が明けて、ハナ立ち見、太陽の日差しをいっぱいに浴びて、喜んでおります。
高砂百合の一番花。
究極の不届き者です。
この辺は、土木作業員や、住居新築、改築工事、取壊しの作業員が多いところですが、この日は、
日曜日でしたので、北勢バイパス工事は休みでした。
恐らく、この辺の新改築高次脳機能作業員が、コンビニ弁当を食べて、帰りに捨てていったものでしょう。
もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。
昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。
太平洋戦争も、日本の圧倒的な不利なまま、いよいよ、末期を迎えていた。
日独伊三国同盟を結んで、連合国側と戦っていた、枢軸国側は、既に、イタリア、ドイツが降伏し、
唯一、日本だけが抵抗していた。
米英は、これに手を焼いて、ヤルタ島においてソ連のスターリンを招き、三者会談を開いて、南樺太の
ソ連占領、朝鮮半島の分割統治を餌に、ソ連の、対日参戦を承諾させた。
ヤルタ協定である。
米英は、ドイツのポツダムにおいて、会合を開き、日本を早急に降伏させるための宣言、ポツダム宣言を
発し、後に、蔣介石、スターリンも、これを承諾した。
この内容は、下の通りである。
6年 学研教育情報資料センター
無断複製:転載:翻訳を禁ず Gakken B026113100
社会
学習相談 小/社会/6年/日本の歴史/
昭和時代/理解シート
ポツダム宣言は、どんな内容だった。
(プライベートブログにつき、了解を得てはおりません。)
1945年7月17日からドイツのポツダムで、アメリカ・イギリス・ソ連の
首脳会談(ポツダム会談)が開かれました。その最中の7月26日に、アメリカ・イ
ギリス・中国の三国共同宣言の形で、ポツダム宣言が発表されました。これはアメ
リカが、用意していた宣言を、イギリスのチャーチル首相と、中国の国民政府主席
の蒋介石 (電信で連らくした)の同意を得て、発表したものです。
●ポツダム宣言の内容
この宣言は、日本が戦争を終わらせるには、受け入れなければならない条件を示
したもので、内容は次の通りです。
①日本国民をだまして、戦争に引きずりこんだ
者の権力 ・勢力を、永久に取り
除くこと。
②平和・安全・正義の新しい
秩序(社会が乱れないための規律)ができるまで、連合国が占領 すること。
③日本の主権が及ぶ範囲(領土)を、本州・北海道・九州・四国と、連合国が決める小島に限定すること。
④軍の武器を完全に取りあげること。
⑤戦争犯罪を犯した者を罰っし
言論・宗教・思想の自由と
基本的人権を尊重 すること。
⑥被害をあたえた国への
賠償 を行い、軍事産業を禁止すること。
⑦民主的・平和的な政府ができたら、占
領軍は引き上げること。
⑧無条件降伏を宣言すること。
⑨この宣言を受け入れない
場合は、速くて完全な
破滅があること..
宣言の主旨は、
1、戦争の責任の根源は、軍部の独善にあり、その責任の大小に応じて、厳しく罰する。
2、日本国民、天皇の責任は問わない。
3、日本には、今後戦争を、放棄させる。
4、天皇の主権を廃し、主権在民とする。
5、大日本帝国憲法を破棄して、日本国憲法を新しく制定する。
その根幹は、言論の自由、信教の自由等々を認める、にある。
この宣言を受けて、軍部内には、いろいろな意見があったが、政府の鈴木貫太郎首相は、
談話で、この宣言は、黙殺すると発表した。
連合国側は、即座に、⑨に基づいて、原爆投下の行使に踏み切った。
日本は、天皇の意思で、無条件降伏に踏み切った。
昭和20年8月15日の玉音放送である。
鈴木貫太郎は、後に、黙殺とは、静観するとの意味であったと言い訳をしている。
長梅雨があけました。
土手の花達は、相変わらず元気です。
ズッキーニも良い出来です。
家内は、大きくなりすぎたので、放っておいたち言っております。
全長:45cm
胴回り:24.5cmでした。
こんな感じです。
家だけでは食べきれませんので、家内が、半分以上おすそ分けしてました。
もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。
昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。
日本が、敗色濃厚の時であった。
信州の田舎の松本も、空襲が近いと言うので、その対策を迫られた。
松本には、日本軍の第50連隊があり、いずれは、米軍の攻撃目標となるものと思われていた。
都会から、松本の郊外に疎開してきた者たちも、そろそろ、もっと田舎へ疎開しようと考えていたようだ。
50連隊は、米軍の空爆を避けて、市内の小学校へ避難してきていた。
学校には、軍隊が避難していると言うことは、米軍のことだから、当然、承知していたはずである。
軍部は、上空から、飛行機に発見され無いように、校舎の屋根に、迷彩を施すと言うのである。
その頃は、軍部でも、物資が払底しており、屋根に塗るペンキにも事欠いていたらしい。
図画の時間に、生徒に持って来させた絵具を、必要な色だけ各人に溶かさせて、兵隊たちが、バケツに入れて回収して行った。
それからしばらくは、兵隊たちは、校舎の屋根の上に上がって、毎日のように、迷彩を施していた。
大きな栗の木です。
去年、盗伐されたタラの芽。
大きく、りっぱになりました。
道路上に、トカゲガ転がっていました。
車にひかれるといけないのでしょう、土手にも、移してやりました。
上を向いて歩こう。
相変わらずの不届き者。
梅雨明けですね。
鈴鹿山脈の落陽でもと思って、見に行きましたが、流石に明けたといっても、山の端は、雲が多くて、
山が見えませんでした。