言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

第55回野村狂言座

2011-09-02 | 能・芸能
番組

・『不見不聞』  太郎冠者:石田幸雄  主:岡聡史  菊市:野村萬斎

・『因幡堂』      夫:野村万作  妻:高野和憲

・『舟ふな』   太郎冠者:野村裕基  主:野村万作

・『馬口労』     博労:野村萬斎  閻魔大王:深田博治

台風12号が日本の横腹に直撃、衛星写真の映像は日本をすっぽりと覆っている。これはもしかしたら帰れなくなるかもしれないと思っていたけれど幸い雨には遭わずに帰宅できた。いつものとおり、水道橋の宝生能楽堂での狂言座だけれど、首都圏は広い。数時間掛けて観劇に訪れる客もいるのだ。自分も往復5時間余りかかる。夕食やら帰宅の交通手段をいつも考えてしまう。  さて万之介師亡き後の狂言座。「因幡堂」の夫を務めるはずでしたが、万作師が務めました。悪妻を離縁し、良き後添えを期待して因幡堂で「願」かけるけれど、一枚上手の悪妻の謀に引っかかりほうほうの態で逃げ出すという筋書だけれど、高野師の悪妻ぶりには笑ってしまうのだ。ネチネチ感がなくて開放的・ストレートな女と言うところか。対する「夫」は感情細やかな常識人という役どころか。万之介師だと、いつも連れ添いの尻に敷かれそれでいて柳に風みたいな雰囲気が最初から感ずるところだと思うけど、万作師は万作師でまた面白い「因幡堂」でした。「不見不聞」パンフレットに「みずきかず」と書いてありました。浅学には読めませんでしたが、要するにこの演目は身障者が役所なのだ。主が外出するにあたり、留守居を命ずる耳の遠い太郎冠者だけでは心配なので、助っ人に目の見えない座頭の菊市を連れてくる。「みえずきこえず」が正しいのではないのかと思ったけれど、演じてる側からすると「みずきかず」つまり自分のハンディに自信?を持って、開き直って生きてるのかもしれないと思うと、正しいのだと解釈することにした。だから留守を務めるあいだ、お互いが相手を傷つけあって嗤いあって、最後は座頭がブッ飛ばされてオタオタするという話しである。今のように健常者・身障者が共にいたわりあって生きてゆきましょうというほど甘くは無かった大昔の光景が思い浮かべて面白かった。「舟ふな」裕基君立派。だんだん可愛いというだけの役者ではなくなってきてる感じがする。新鮮な、そして溌剌としたものを時折感じる。万作師が相手なので一層そういう若さが引き立つのかもしれない。そのうち、かっての武を凌ぐ人気役者になるかもしれない。楽しみ。「馬口労」これも読めなかった。「博労」のことだ。大昔は馬の口を取った者をこう言っていたのかもしれない。それが皆博奕好きが多くて「博労」になったのかもしれない。三途の川を渡った博労は閻魔大王と遭遇。大王は博労を地獄に落とそうとするが、博労が手にした馬の「くつわ」に興味を持ち乗馬を教えろと博労に迫る。「くつわ」の使い方を知ろうと自分が馬になったのが失敗のもと。蹴りあげようが振り落とそうが博労の巧みな「くつわ」さばきでヨレヨレにされ、地獄どころか天国行きを約束させられてしまう・・というお間抜けな閻魔大王なのだ。こう書いてしまうとなんのことはないのだけれど、そう思わせるよう演ずるとなると難しいのだ。そこは萬斎・深田両人です。大暴れの馬と博労の呼吸はぴったりではなかったかと。蹴りあげる深田師、僅かに外す萬斎師。さすがです。 今回なぜか役者の声が重要な要素を持つのだと感じた。自然で良くとおる声。大きい小さい自在で生き生きとした余裕を持った声というのはそれだけで観客を納得させ得る。だみ声でも透き通ったような声でも、声が生きてると言うのはすばらしいことだと思った。