私は、これまで多くの 厄介事 に
ボランテァで首を突っ込んで来た。
当然の事ながら
動けば動いた分 だけリスクが生じる
リスクを避ける唯一の方法は
動かない事
ジッとしていれば 向こう傷 を負ったり
返り血を浴びたりする心配は無い
だけど・・・・
それでは自分が生きている実感が沸かない
どんな人間でも、自分が生きている実感が欲しい
ならば、動かない人間は何をもって 生きている実感を得るのだろう?
たぶん、その多くは、
「 批判的人間観察 」
ではなかろうか・・・
自ら動かない人間ほど
他人のすることを批判したり、
冷ややかな目で見る傾向が強いように
感じる
自らが積極的な行動をしないクセに
積極的に動く人間に対し
つねに、冷ややかな視線で 論評 する輩がいる
こういうのを わたしは「 評論家 」 と呼ぶ
立派な、論評 をすることによって
優越感に浸っているように思う
こういう人にとっては 「 評論 」 が
自分が生きていることの 証し であり
実感であるのだろう
私は、常々、自分に言い聞かせている
「 評論家になったらおしまいだ 」 と
そう思って行動すると
必然的に
失敗の絶対数が増える
返り血を浴びる機会が増える
あとで、反省したりする事が増える
自分で気づいていない、罪 を犯してしまう危険性がある
積極的に動いたが故に犯した 罪 は
果たして、悪業 なのか?
このへんは 簡単そうで難しい問題であると思う
突き詰めて考えてゆくなら、
結局のところ
人間の尺度で 善 悪 を測ることはできない
人間的尺度でいう 善 悪 とは
虚像に過ぎない
それ故、本質的には 悪業、悪因縁など 存在しない
その反対に
徳を積む などと言う言葉も 曖昧すぎて
単なる自己満足に思えてならない
徳を積んでも 何も見返りはない
それでも、自分の良心に従い
一歩前に出る
謙虚な気持ちで、
神仏の方向を見つめ
神仏に向かって自問自答し
自分が 「 良し 」 とした事を
継続する事が
人間の務めではなかろうか
それは、ある意味 「 無意味 」
な事である
無意味な事を徹底的に行う事が出来る者の前には
最終的に大きな 有意義 が現れると信じる
ボランテァで首を突っ込んで来た。
当然の事ながら
動けば動いた分 だけリスクが生じる
リスクを避ける唯一の方法は
動かない事
ジッとしていれば 向こう傷 を負ったり
返り血を浴びたりする心配は無い
だけど・・・・
それでは自分が生きている実感が沸かない
どんな人間でも、自分が生きている実感が欲しい
ならば、動かない人間は何をもって 生きている実感を得るのだろう?
たぶん、その多くは、
「 批判的人間観察 」
ではなかろうか・・・
自ら動かない人間ほど
他人のすることを批判したり、
冷ややかな目で見る傾向が強いように
感じる
自らが積極的な行動をしないクセに
積極的に動く人間に対し
つねに、冷ややかな視線で 論評 する輩がいる
こういうのを わたしは「 評論家 」 と呼ぶ
立派な、論評 をすることによって
優越感に浸っているように思う
こういう人にとっては 「 評論 」 が
自分が生きていることの 証し であり
実感であるのだろう
私は、常々、自分に言い聞かせている
「 評論家になったらおしまいだ 」 と
そう思って行動すると
必然的に
失敗の絶対数が増える
返り血を浴びる機会が増える
あとで、反省したりする事が増える
自分で気づいていない、罪 を犯してしまう危険性がある
積極的に動いたが故に犯した 罪 は
果たして、悪業 なのか?
このへんは 簡単そうで難しい問題であると思う
突き詰めて考えてゆくなら、
結局のところ
人間の尺度で 善 悪 を測ることはできない
人間的尺度でいう 善 悪 とは
虚像に過ぎない
それ故、本質的には 悪業、悪因縁など 存在しない
その反対に
徳を積む などと言う言葉も 曖昧すぎて
単なる自己満足に思えてならない
徳を積んでも 何も見返りはない
それでも、自分の良心に従い
一歩前に出る
謙虚な気持ちで、
神仏の方向を見つめ
神仏に向かって自問自答し
自分が 「 良し 」 とした事を
継続する事が
人間の務めではなかろうか
それは、ある意味 「 無意味 」
な事である
無意味な事を徹底的に行う事が出来る者の前には
最終的に大きな 有意義 が現れると信じる
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