名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

評論家になったらおしまいだ 

2013-01-15 | 思う事
私は、これまで多くの 厄介事 に
ボランテァで首を突っ込んで来た。

当然の事ながら
動けば動いた分 だけリスクが生じる
リスクを避ける唯一の方法は
動かない事
ジッとしていれば 向こう傷 を負ったり
返り血を浴びたりする心配は無い
だけど・・・・
それでは自分が生きている実感が沸かない

どんな人間でも、自分が生きている実感が欲しい

ならば、動かない人間は何をもって 生きている実感を得るのだろう?

たぶん、その多くは、
 
「 批判的人間観察 」

ではなかろうか・・・

自ら動かない人間ほど
他人のすることを批判したり、
冷ややかな目で見る傾向が強いように
感じる

自らが積極的な行動をしないクセに
積極的に動く人間に対し
つねに、冷ややかな視線で 論評 する輩がいる
こういうのを わたしは「 評論家 」 と呼ぶ

立派な、論評 をすることによって
優越感に浸っているように思う

こういう人にとっては 「 評論 」 が
自分が生きていることの 証し であり
実感であるのだろう

私は、常々、自分に言い聞かせている

「 評論家になったらおしまいだ 」 と

そう思って行動すると

必然的に
失敗の絶対数が増える
返り血を浴びる機会が増える
あとで、反省したりする事が増える
自分で気づいていない、罪 を犯してしまう危険性がある

積極的に動いたが故に犯した 罪 は
果たして、悪業 なのか?

このへんは 簡単そうで難しい問題であると思う

突き詰めて考えてゆくなら、

結局のところ

人間の尺度で 善 悪 を測ることはできない
人間的尺度でいう 善 悪 とは
虚像に過ぎない

それ故、本質的には 悪業、悪因縁など 存在しない
その反対に
徳を積む などと言う言葉も 曖昧すぎて
単なる自己満足に思えてならない

徳を積んでも 何も見返りはない
それでも、自分の良心に従い
一歩前に出る

謙虚な気持ちで、
神仏の方向を見つめ
神仏に向かって自問自答し

自分が 「 良し 」 とした事を
継続する事が
人間の務めではなかろうか

それは、ある意味 「 無意味 」
な事である

無意味な事を徹底的に行う事が出来る者の前には
最終的に大きな 有意義 が現れると信じる


このブログに表示される広告サイトは当方とは一切関係ありません
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする