人との関わりあいにおいて、
やはり、相性の好い悪いはあります。
「 あの人は表面では善い人そうに見えるが、チョッと警戒したほうがいい 」
と普段感じている人がいたとします。
その予感は的中して、
このひとが影で自分の足を引っ張るような事を画策している事が
わかったとします。
この場合、「 やっぱりネー 」と思うだけで、
それほどビックリもしないし、腹も立ちません。
それとは反対に、
「 あの人は裏表がない人だから、絶対的に信頼できる人だ 」
と思っていろいろ面倒を見たりして、愛情をもって接していた人がいたとします。
その思いとは裏腹に、
実は、その人は、見えないところで自分に対して、悪意を持った画策をしていたことが
判明したとします。
この場合、驚き、動揺する。
そのとき、今までその人に向けられていた好意は強い怒りと怨念に変貌する。
クッソー ・・・ あのヤロー!!! 恩を仇で返す気か・・・許さん!!!
これが、はじめからさほど期待を寄せていなかった人間や、
まったく意識していなかった人間
ならさほどビックリもしないだろうし、腹も立たない。
これは信頼を裏切られたが故の憎しみではないだろうか。
これはどういう事だろう・・・
「 愛情の裏側は 憎しみ 」 なのか?
「 信頼の裏側は、失望 」 なのか?
初めから愛情や信頼などもってさえいなければ、
これほど強い憎しみなど生まれないはずだ。
信頼さえしなければ、 失望 などしないということだ。
ならば・・・ 愛情や信頼など人間が作り出した虚像であり、
それに大きな価値などない事になってしまう。
愛情とか、信頼とかは、絶対的なものではなく
時と、場所と、人、の三相応に於いて、
いとも簡単にひっくり返ってしまう茶番劇という事になってしまう。
だから、どんな場合でも、他人を絶対に信用してはいけない。
常に警戒すべし。
果たして、こういう考え方がもっとも賢い考え方なのだろうか?
もし、こういう考え方で生涯を貫いたなら、
傷を負う事もないかわりに、大きなものを得る事もありえない。
私は思う。
人を信じると云う事は、これ即ち
覚悟
信じるとは、覚悟するという事に他ならない。
いったん覚悟したからには、その結果に失望したり落胆しているような
醜態をさらしてはいけない。
「 これでイイのだ・・・・ 」 と笑い飛ばすだけだ。
ならば、「覚悟」とは何か?
覚悟とはバカになる事。
ただし、生半可な気持ちではバカになりきる事ができない。
バカになりきるためには、
それ相応の知識と、深い洞察と、思慮と、道理の見極めがなくてはならない。
かつて、日本を震撼させた宗教団体 〇ームの凶悪事件は、
教祖 麻Hを絶対的に信用する多くの信者によって引き起こされた事件である。
当時、テレビの報道番組を見ていて面白い光景を目にした。
報道番組の記者が街頭で、通行人にインタビューをしている光景だった。
大阪の繁華街を肩をいイカらせて歩いている、見るからにその筋の方と
わかる、中年の恐い顔をした人にインタビューするシーンだった。
記者 ・・・・「 一連のオーム事件についてどう思いますか 」
恐い人 ・・・・「 信者達が、麻〇に惚れ込んだなら、
それはそれでよい、それは大事な事だ。
そんなこと、とやかく言っちゃーいけない。
でも、ヤク(麻薬)はやったらアカン、それだけは許されへん 」
なるほど・・・と思った。
この恐い顔をしているお方の言いたい事はよく分かったような気がした。
〇ームは、麻薬を密造し、それを気付かれないように信者に投与していた。
薬物を使って多くの殺人を行った。
サリンで無差別テロを行った。
これは、やってはいけないこと。
ヤクザ屋さんの世界にも、それ相応の自主規制をもってやっている人がいるということだ。
〇ームの信者は、麻〇を信じ、バカになってそれに従った。
でも、そのバカになる判断を間違った。
これ即ち、 バカになって良いか、悪いかの
道理としての見極めを間違ったということだ。
人間、最終的にはバカにならなければ何も出来ない。
でも、バカになるには「 道理の見極め 」が不可欠である。
その「 道理 」とは、
自分の親や兄弟、を悲しませるような事はしてはいけないという事。
自分の先祖が悲しむような事はしてはいけないという事。
殺してはいけないということ。
自分勝手な都合で、薬物などの武器を使って、
人の人格を支配したり、生命を支配してはいけないという事。
自分の信じる人の行動や思想が、
如何に立派なことであったとしても、
惚れ込んでしまったとしても、
その人がもし、このような、人間としての道理をわきまえていない人間ならば、
信頼してはいけない。
こういう人に対しては、バカになって信じてはいけない。
バカになるのも簡単ではない。
何に対して、バカを極めるか?
これが自分に課せられた最大の課題である。
やはり、相性の好い悪いはあります。
「 あの人は表面では善い人そうに見えるが、チョッと警戒したほうがいい 」
と普段感じている人がいたとします。
その予感は的中して、
このひとが影で自分の足を引っ張るような事を画策している事が
わかったとします。
この場合、「 やっぱりネー 」と思うだけで、
それほどビックリもしないし、腹も立ちません。
それとは反対に、
「 あの人は裏表がない人だから、絶対的に信頼できる人だ 」
と思っていろいろ面倒を見たりして、愛情をもって接していた人がいたとします。
その思いとは裏腹に、
実は、その人は、見えないところで自分に対して、悪意を持った画策をしていたことが
判明したとします。
この場合、驚き、動揺する。
そのとき、今までその人に向けられていた好意は強い怒りと怨念に変貌する。
クッソー ・・・ あのヤロー!!! 恩を仇で返す気か・・・許さん!!!
これが、はじめからさほど期待を寄せていなかった人間や、
まったく意識していなかった人間
ならさほどビックリもしないだろうし、腹も立たない。
これは信頼を裏切られたが故の憎しみではないだろうか。
これはどういう事だろう・・・
「 愛情の裏側は 憎しみ 」 なのか?
「 信頼の裏側は、失望 」 なのか?
初めから愛情や信頼などもってさえいなければ、
これほど強い憎しみなど生まれないはずだ。
信頼さえしなければ、 失望 などしないということだ。
ならば・・・ 愛情や信頼など人間が作り出した虚像であり、
それに大きな価値などない事になってしまう。
愛情とか、信頼とかは、絶対的なものではなく
時と、場所と、人、の三相応に於いて、
いとも簡単にひっくり返ってしまう茶番劇という事になってしまう。
だから、どんな場合でも、他人を絶対に信用してはいけない。
常に警戒すべし。
果たして、こういう考え方がもっとも賢い考え方なのだろうか?
もし、こういう考え方で生涯を貫いたなら、
傷を負う事もないかわりに、大きなものを得る事もありえない。
私は思う。
人を信じると云う事は、これ即ち
覚悟
信じるとは、覚悟するという事に他ならない。
いったん覚悟したからには、その結果に失望したり落胆しているような
醜態をさらしてはいけない。
「 これでイイのだ・・・・ 」 と笑い飛ばすだけだ。
ならば、「覚悟」とは何か?
覚悟とはバカになる事。
ただし、生半可な気持ちではバカになりきる事ができない。
バカになりきるためには、
それ相応の知識と、深い洞察と、思慮と、道理の見極めがなくてはならない。
かつて、日本を震撼させた宗教団体 〇ームの凶悪事件は、
教祖 麻Hを絶対的に信用する多くの信者によって引き起こされた事件である。
当時、テレビの報道番組を見ていて面白い光景を目にした。
報道番組の記者が街頭で、通行人にインタビューをしている光景だった。
大阪の繁華街を肩をいイカらせて歩いている、見るからにその筋の方と
わかる、中年の恐い顔をした人にインタビューするシーンだった。
記者 ・・・・「 一連のオーム事件についてどう思いますか 」
恐い人 ・・・・「 信者達が、麻〇に惚れ込んだなら、
それはそれでよい、それは大事な事だ。
そんなこと、とやかく言っちゃーいけない。
でも、ヤク(麻薬)はやったらアカン、それだけは許されへん 」
なるほど・・・と思った。
この恐い顔をしているお方の言いたい事はよく分かったような気がした。
〇ームは、麻薬を密造し、それを気付かれないように信者に投与していた。
薬物を使って多くの殺人を行った。
サリンで無差別テロを行った。
これは、やってはいけないこと。
ヤクザ屋さんの世界にも、それ相応の自主規制をもってやっている人がいるということだ。
〇ームの信者は、麻〇を信じ、バカになってそれに従った。
でも、そのバカになる判断を間違った。
これ即ち、 バカになって良いか、悪いかの
道理としての見極めを間違ったということだ。
人間、最終的にはバカにならなければ何も出来ない。
でも、バカになるには「 道理の見極め 」が不可欠である。
その「 道理 」とは、
自分の親や兄弟、を悲しませるような事はしてはいけないという事。
自分の先祖が悲しむような事はしてはいけないという事。
殺してはいけないということ。
自分勝手な都合で、薬物などの武器を使って、
人の人格を支配したり、生命を支配してはいけないという事。
自分の信じる人の行動や思想が、
如何に立派なことであったとしても、
惚れ込んでしまったとしても、
その人がもし、このような、人間としての道理をわきまえていない人間ならば、
信頼してはいけない。
こういう人に対しては、バカになって信じてはいけない。
バカになるのも簡単ではない。
何に対して、バカを極めるか?
これが自分に課せられた最大の課題である。