
人間死んだら 無 になるのか?
死後の世界はないのか?
霊魂 など存在しないのか?
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魂 と 霊 は別物
この二つを区別しないと、何も見えてこない。
人間には ‘ 心 ‘ がある
‘ 心 ‘ とは言い換えれば ‘ 想い ‘
想い とは、
哀しいとか、嬉しいとか、腹が立つとか、悔しいとか・・・
そういった人間の内部で発生する エネルギー
このエネルギー 即ち 「 魂 」
ならば、霊 とは何か?
「 霊 」とは
永遠不滅のエネルギー
人間の本体は 「 霊 」そのもの
「 霊 」は神と一体であり、仏の分身でもある。
神の姿は、は完全にして円満。
人間の 想い はいつかは変わる。
腹が立っていても、悲しくても、
何かのキッカケがあれば、それは一瞬にして消えてしまう
霊 は永遠不滅のエネルギーであるから
魂のように、あるときは 喜び、あるときは悲しみ、
又、あるときは怒る・・・
そんな不安定なものではない。
霊 は常に極楽浄土の中に存在し
法悦に満たされ、静かに、安らかに存続し続ける。
この、霊こそが 「 人間の本質 」
これこそが、「 絶対的な因果 」
霊魂 と言う言葉は
便宜的その言葉を使っているだけで
霊 と 魂 をごちゃ混ぜにした単語。
人間は死ぬと 「 霊 」 と 「 魂 」 に分離する。
無念な思いを残して死んで行った人が 幽霊 となったり
怨念となって災いを及ぼすとかいった話を耳にします。
これは、死んだ人の 魂 が起こす現象です。
でも・・・もっと追求するなら・・・
死んだ人の魂より怖いものがある。
それは、
「 生きている人間の魂 」
強い憎しみ、怨み、悲しみ、後悔、不平不満、怒り、
こう言った 念 を持ち続けると、
その念を発した 本人の周りを、「 魔物のようなもの 」
が取り囲む。
この 「 魔物 」とは、自分の外からやって来るものではなく、
「 自分の内 」からやって来る。
でも、これは、実在するものではない。
魔物の存在は 「 事実 」
これが見える人には、見えることもある。
でも、 これは「 真実 」ではない。
魔物とは、その人の 念 ( 魂 )
が作り出した蜃気楼のようなもの。
「 無いものが、あるかのごとく見えたり、悪影響を及ぼす。」
これは 「 事実 」
これは人間の心が作り出した
虚像(迷い) であり 『 迷いは無い 』
これが 「 真実 」
真実 と 事実 この二つを混同してはいけない。
これは、先に述べた
「‘霊‘ と ‘魂‘ を混同してはいけない 」
という理屈とよく似ている。
厄介な事に・・・・
魔物の根源は、自分の魂であるにも関わらず、
自分の意思とは離れた「 別人格のような」
振る舞いをする。
即ち、自分が作り出した魔物が、
自分に害を与えるような悪さをする。
苦しむ魂が想いを入れ替えれば
ニコヤカになる時も来る。
でも、もう一方の 霊 は
終始一貫して 安らかで、平和なエネルギーしか発していない
それ故、死んだと同時に極楽浄土に行く
供養とは、先祖の ‘ 魂 ‘を安心させ
‘ 霊 ‘に対して 畏敬の念を送る こと。
先祖がニコヤカになると、
自分もニコヤカになる。
なぜなら、‘あの世‘ と ‘この世‘ は別の場所にある訳ではないからだ、
‘あの世‘と、‘この世‘ は今現在、同じ場所で、同時進行している。
更に突き詰めれば・・・
生きている人間にも、霊魂が宿る。
自分で自分の霊魂を供養する必要がある。
これを 私は「 自分供養 」 と呼ぶ。
自分を供養する方法は?
自分を、深い意味で喜ばすこと。
深い喜びとは?
ひとが喜べば自分も嬉しい。
殺されそうになっている生命を、救済できたなら、
自分も嬉しい・・・
これが、自分を供養すること。
当然の事ながら・・・
自分を供養すのは、「自分自身」
それ以外の方法はありえない。
自分自身の内なる声を聞こうとせず、
それを偽ることは、
自分の内に宿る ‘ 霊‘ を隠蔽することである。