京都の某有名寺院に、
著名な僧侶がいました。
このお方は仏教界では信望が厚い
高僧でした。
このお方が死を迎えようとしているとき、
弟子の一人が高僧に懇願しました。
「 最後にひとことでいいから、死についての
真理をお聞かせ頂けないでしょうか?」
高僧は答えて
「 わかりました、明まで考えてお答え致しましょう 」
しかしながら、高僧は次の日も、その次の日も、
その約束を果しません。
弟子たちが尋ねても、
「 明日まで待ってください 」と言う。
何度催促しても、この調子で、
一週間の月日が流れてしまいました。
8日目になって、高僧はついに重い口を開きました。
「 きいてください。私は死にたくありません。
私はいままで、修行を積んで
悟ったつもりでいましたが、死にたくないのです。
これが私の最後の言葉です 」
弟子たちは唖然として、
以後この事はいっさい口にしなかったとのこと・・・
・・・・・・・・・・・・
このお話は、ほんとうにあったお話らしいです。
私は思います・・・
生きたい!!!
死にたくない!!!
こそが、人間のもつ究極の願望
これに難しい屁理屈を並べる必要などない。
これこそが「 生 」 に対する究極の真理
ではないだろうか。
ならば、なぜ自殺という行為があるのか?
焼身自殺を決行した人は、
自分の身体に火が着いた瞬間、必ず走り出すらしい。
なぜだろう?
死にたくないからだ。
生きたいからだ。
自殺をするからにはよほどの悩みがあるのだろう。
でも、この悩みとは、
自分の意識の表面の部分で起きていることであり、
意識の内面では、
死にたくない!!!
と思っている。
それ故、自分で火を着けたにも関わらず、
無意識のうちになんとか助かろうと、
最後の力をふる絞って走り出す。
いのちがある限り、
生きなければならない。
他の生命を奪ってはいけない。
なぜなら、
すべての人間は
生きているのではなく、
大いなる力によって、生かされているからだ。
著名な僧侶がいました。
このお方は仏教界では信望が厚い
高僧でした。
このお方が死を迎えようとしているとき、
弟子の一人が高僧に懇願しました。
「 最後にひとことでいいから、死についての
真理をお聞かせ頂けないでしょうか?」
高僧は答えて
「 わかりました、明まで考えてお答え致しましょう 」
しかしながら、高僧は次の日も、その次の日も、
その約束を果しません。
弟子たちが尋ねても、
「 明日まで待ってください 」と言う。
何度催促しても、この調子で、
一週間の月日が流れてしまいました。
8日目になって、高僧はついに重い口を開きました。
「 きいてください。私は死にたくありません。
私はいままで、修行を積んで
悟ったつもりでいましたが、死にたくないのです。
これが私の最後の言葉です 」
弟子たちは唖然として、
以後この事はいっさい口にしなかったとのこと・・・
・・・・・・・・・・・・
このお話は、ほんとうにあったお話らしいです。
私は思います・・・
生きたい!!!
死にたくない!!!
こそが、人間のもつ究極の願望
これに難しい屁理屈を並べる必要などない。
これこそが「 生 」 に対する究極の真理
ではないだろうか。
ならば、なぜ自殺という行為があるのか?
焼身自殺を決行した人は、
自分の身体に火が着いた瞬間、必ず走り出すらしい。
なぜだろう?
死にたくないからだ。
生きたいからだ。
自殺をするからにはよほどの悩みがあるのだろう。
でも、この悩みとは、
自分の意識の表面の部分で起きていることであり、
意識の内面では、
死にたくない!!!
と思っている。
それ故、自分で火を着けたにも関わらず、
無意識のうちになんとか助かろうと、
最後の力をふる絞って走り出す。
いのちがある限り、
生きなければならない。
他の生命を奪ってはいけない。
なぜなら、
すべての人間は
生きているのではなく、
大いなる力によって、生かされているからだ。