「 太陽は明るい 」
「 炎は熱い 」
「 氷は冷たい 」
当然の事です。
別に「 信じる 」必用などありません。
「 太陽は明るい事を信じます 」
「 炎は熱いという事を信じます 」
「 氷は冷たいと信じます 」
もし、こんな事をいう人がいたら、その人は、
太陽も、火も、氷も・・見た事も体感したこと
もない人でしょう。
これ即ち、腹の底では信じていないのに、
「 信じるべきだ 」
と自分に対して言い聞かせている事になる。
太陽を見た事がない人が
もしいたとするなら、その人は、
「 私は太陽を信じます 」
という言葉を使うことが適切です。
「 神を信じる 」
私はこの言葉を使いません。
「徳を積む」・・
この言葉も使いません。
私の場合、この言葉を使うことに
大きな恥じらいを感じるからです。
そういう意味で、
日本古来の神道は素晴らしいと感じます。
神道は教義を持たないからです。
真の宗教の目指すものは、
「 信じる 」ことでは無く。
「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を実感することであると思います。
永遠の生命
こそが、神の分霊であり、
仏の化身であると感じます。
「 信じる 」を超越した人こそが、
真の宗教家であると思う。
即ち、神を信じる・・信じない・・
そんなことは、どうでもよい事であると思う。
現に、無神論者のなかにも
「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を自覚する偉大な人間は多く存在する。
故に、真に偉大な人は
「信じる努力をしていないごく普通の人間」
であると感じます。
そう云う私も、
幾重にも重なる皮を剥がしてみたら、
実は「信じようと努力している」
人間であるかも知れない・・
自問自答しながら生きています。
ウサギ講の目指すものは、
「 神仏を信じる 」
という言葉を忘れることです。
同時に「徳を積む」という言葉を
忘れることです。
皮肉なことに・・・
宗教団体は、
「神仏を信じる努力をする偉い先生」
を多く排出する。
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