~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~
講演 十七
「正しく定に入るべし」
先の続き・・・
ちょうどその頃、私が反省のため山に入らせていただく直前に、
東京から偉大な方と言われていた人が来られたのです。
その方の講演を聞かせてもらいました。
「坐って反省することは要りません。
反省する時期は過ぎました」と、その先生が話されるのを聞いて、
「これはえらいことになったなあ、私は何のために
山に入っていくのかなあ、何のために坐りにいくのかなあ」と
すごく疑問を持ったのです。
しかし行く日も決まっているし、荷物もまとめていましたから、
そのまま反省をしに行って坐らせていただきました。
その結果、私はすばらしい喜びを頂きました。
正に心に法灯を頂いたと思います。
この喜びは、口や言葉ではとても言い尽くすことのできない喜びです。
法の喜びですね。
その時私は、「あの東京の先生は間違ったことを言われた、
坐ってする反省は要らないとおっしゃった、
しかし私は坐ってこの喜びを得た、坐ることなしに
この喜びは絶対に頂けないはずである。
だから坐ってする反省は要らないというのは全く間違っている」と、
自分の体験をもって見抜きました。
自分が反省も実践をして掴んだこの喜びは、誰が何と言おうと、
どんな偉い人がどう言おうとそれとは関係がない私の心です。
そして間違いのない事実です。
だから頭や口でそういうことをおっしゃっても、
それは間違いであるということをはっきりと言い切ることができます。
そういう体験をさせてもらって、反省とは有難いものだなあ、
こんなに自分が楽になれるものだと分からせてもらいました。
私たちは成長の過程において、
自分のお母さんに数えきれない迷惑をかけているというのは事実ですね。
しかも母はすべてを許して下さっています。
私たちすべてがそうです。
親に心配をかけていない者は皆無のはずです。
また、この世に生まれて一度も過ちを犯していないという人も
皆無のはずです。
自然に背いた思いや言葉もそうです。
思いはすでに心の中で行動が始まっているということです。
思うから、それが言葉となって発せられ、また、
肉体の動きとなります。
思うだけならば人には迷惑はかけないと思うのですが、
そうではありません。