浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2020-02-14 00:20:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

私が教えの習いたての頃に、こういう話を同業の人にしたのです。
すると、ある人が、「長尾さん、殺生なことを言うな、
思うことぐらい自由にさせてほしい。
私は友達の嫁さんが好きで好きで、晩になったらその人のことを
思うのが楽しみだ。思うことぐらいなら構わないだろう」と言うのです。

それで、私は、「いや、思ってはいけないそうです。
心の中でもしその人のことが好きだと思ったとしたら、
それはすでに姦淫を犯しているそうです」と言うと、
「何もしていないのだから構わないだろう、
なぜいけないのか教えてくれ」と言われるから、
「まず、奥さんを裏切ります。心の中で裏切っています。

あなたを信じ、
あなたを立派なお父さんと思っている子供さんたちをすでに
裏切っているのです。
また、友達に対してあなたは盗みをはたらきました。
そのお嫁さんを思うことは、もう盗みをはたらいたことです。

最も危険なことは、
もし何かの縁によってあなたとその奥さんが
二人きりになるような機会が訪れた時、
あなたが何とも思っていない場合は間違いは起きませんが、
しかし好きだと思っていて二人きりになったら、
これはただではすみません。

だから、その思いは正しくないのです。
思いを正さなくてはならないそうです」と、
教えてもらった通りに話しましたところ、
「なるほどそうだな、私もあまり思わんようにしよう」と、言って
いただいたことがあります。
 
思いは縁に触れたら、それが行動となって現れる場合が起きるから、
正さねばならないのです。
もし現実にそうなった時、今度は苦しみが生まれますから、
思いはできるだけ正すことです。
それは必ず形となって現れるからです。

思うことで、他に迷惑をかける場合はたくさんあります。
憎い人があって、「ほんとうに憎いなあ、
あんな奴は死んでしまえ」と思った時、
すでに心の中で殺人を犯したことになります。
たとえ相手に聞こえなかったとしても、
これは言葉として口に出さなくても、
思いとして立派な殺人を犯したことです。

言葉についても同様で、常に正しく語らなくてはいけません。
口を開けば、
必ず相手に喜びと安らぎと希望を与える言葉を言うように心掛け、
それ以外の言葉はいっさい不要です。
その時、言葉の災いから自分を守ることができます。
「正しく定に入るべし」が、とんだ寄り道になりましたが、
これも定に入る一つの反省の例でございます。
皆様も参考にしていただけたら結構かと思います。
「心行」も大詰めとなりました。
長い間、ほんとうによく聞いていただきました。


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「御垂訓」

2020-02-13 00:21:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

ちょうどその頃、私が反省のため山に入らせていただく直前に、
東京から偉大な方と言われていた人が来られたのです。
その方の講演を聞かせてもらいました。

「坐って反省することは要りません。
反省する時期は過ぎました」と、その先生が話されるのを聞いて、
「これはえらいことになったなあ、私は何のために
山に入っていくのかなあ、何のために坐りにいくのかなあ」と
すごく疑問を持ったのです。

しかし行く日も決まっているし、荷物もまとめていましたから、
そのまま反省をしに行って坐らせていただきました。
その結果、私はすばらしい喜びを頂きました。
正に心に法灯を頂いたと思います。

この喜びは、口や言葉ではとても言い尽くすことのできない喜びです。
法の喜びですね。
その時私は、「あの東京の先生は間違ったことを言われた、
坐ってする反省は要らないとおっしゃった、
しかし私は坐ってこの喜びを得た、坐ることなしに
この喜びは絶対に頂けないはずである。

だから坐ってする反省は要らないというのは全く間違っている」と、
自分の体験をもって見抜きました。
自分が反省も実践をして掴んだこの喜びは、誰が何と言おうと、
どんな偉い人がどう言おうとそれとは関係がない私の心です。

そして間違いのない事実です。
だから頭や口でそういうことをおっしゃっても、
それは間違いであるということをはっきりと言い切ることができます。
そういう体験をさせてもらって、反省とは有難いものだなあ、
こんなに自分が楽になれるものだと分からせてもらいました。

私たちは成長の過程において、
自分のお母さんに数えきれない迷惑をかけているというのは事実ですね。
しかも母はすべてを許して下さっています。
私たちすべてがそうです。

親に心配をかけていない者は皆無のはずです。
また、この世に生まれて一度も過ちを犯していないという人も
皆無のはずです。
自然に背いた思いや言葉もそうです。

思いはすでに心の中で行動が始まっているということです。
思うから、それが言葉となって発せられ、また、
肉体の動きとなります。
思うだけならば人には迷惑はかけないと思うのですが、
そうではありません。



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「御垂訓」

2020-02-12 01:06:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

自らを許させていただいた時、
この肉体の五官の感覚が完全に消えてしまいました。
意識ははっきりしていますが、頭・手・足・胴はどこにもなく
何も感じないのです。

こういうことは生まれて初めての体験ですから、
「あら、私の体が無くなってしまった。
私はどこかへ行ってしまった」と思ったのです。
身が軽いというようなものとは全く違います。
完全に肉体の感覚が消えます。

私は自分がどこかへ行ってしまったらえらいことだと思いましたから、
顔・頭・胸・手足をしっかり掴んで確認しました。
するとやっぱり感じがあるなと思い、自分の全身を探したぐらいです。
そして「ああ、やっぱりついていた」と思ったのです。

私たちの心の中には想念帯という心の曇りの場所があるそうです。
それは私たちの肉体の五官の感覚によってできているそうですね。
想念帯が破れた時に、この五官の感覚が全くなくなってしまいます。
そのことが後になって分かって、
その時の心の状態はこういうふうになったのだなと
知ることができました。

その時の心境は、
もう見るもの見るもの全部が愛おしくて
いとおしくてたまりませんでした。

そこらに生えている草、林の中の木々を見ると、
ああ良かったなあと草に頬ずりをし、
木に抱きついて喜んだものでした。
何ともいえない喜びに満たされるものです。


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「御垂訓」

2020-02-11 00:12:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

行きたい、行きたいと思うのです。
ところが、そこへどうしても行けない。
稲束を渡す役目をしなかったら怒られますから、
その場から逃げることができないのです。

これと同じようにどうすることもできないことが
十代であれば十代においてあり、或いは二十代であれば二十代で、
同じように柵の中で涙を流しながら精一杯生きている己の姿を
この目に見せられました。

その時、あまりにも哀れな自分の姿を、
短い間に全部見せていただいたのです。
私はこんな可哀相な環境の中で柵にくくられた中で
必死になって生きている
己の姿を見て、思わず「可哀相だったなあ」と、
自分に対してもう涙がとめどなく流れてきて、
こういう厳しい中でよく生きてきたなあという思いが溢れてきました。

その時、私は思ったのです。
「反省みたいなもの、できてもできなくてもいい、
心に法灯みたいなもの、頂いても頂かなくてもいい、
そんなものは関係ない。
とにかく私自身を許してあげよう。
これほど精一杯生きた己自身に対して許しを与えよう。

己に優しく、
人に厳しくという生き方ならば法に背くけどそうではなかったのだ。
もう法も何もない、とにかく私は私自身を許すことだ」と思って、
自分を許そうと決めた時、心がふわっと軽くなったのです。
ほんとうに心がふわっと広くなり、光り輝いた己その時自覚しました。
自分を許した時、
どれほど自分が楽であるかということを悟らせていただいたのです。


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「御垂訓」

2020-02-10 00:20:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

この話しもよくしますが、小学校一年生の秋のことです。
秋の取り入れで稲刈りをして干し、
乾燥すると田圃の真ん中に茣蓙(ござ)を敷いて脱穀をするのです。

干してある稲束を脱穀する場所まで運ぶと、
父が足踏み機でギコギコ脱穀しては済んだ藁を
後ろに放っていくのですが、その時、
積んである束を父に渡すのが私の役目でした。

この稲束を一つずつ父が最も受け取り良いように渡しますと、
父はザァーと脱穀してパッと後ろに放ります。
すると次の束を渡さなくてはいけないのですが、
父の手許の受け取り易いところへ持っていかないと
「何をしているのか」と怒られます。

父のしやすいように次々と渡していくのです。
こうすれば一つ一つ取る時間が節約できるわけで、
父の体も少しは楽になります。

その田圃のすぐ近くは堤防でその上は平地になっており、
友達がきてワイワイ遊んでいるのです。
私はちょっとおませでして、もう好きな女の子がいたのですね。
「あの子、可愛らしいなあ」と、まあ、私の初恋でございます。
その子もいっしょに遊んでいるので、私は行きたくてたまりません。

「男女の愛は苦しみである」と、よくいったものです。
神の愛、アガベの愛に苦しみはないのです。
けれども男女の愛には必ず苦しみがつきます。
その女の子の側へ行きたい行きたいと思っているのに行けない、
友達は楽しそうに遊んでいるのに私は稲束を渡さなくてはいけない、
その時の辛かったこと。

そのうちだんだん日が暮れてきて、友達は皆帰ってしまいます。
その子も帰ってしまいました。
私は涙をポロポロこぼしながら稲束を渡していたのです。
父が、「お前、何泣いてるのか」と、
私の気持ちも知らないで言うのです。
もし私の心を知ったら、お父さんは腰を抜かしたかも知れません。
小学校一年生で好きな子がいるなんて、
まあ、私は泣きながら叱られながら
稲束を渡したものでした。


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「御垂訓」

2020-02-09 00:19:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

私はいくらやってもできないから、もう諦めたのです。
諦めてごろんと転がって、
「私のような者が心に法灯を頂くというような
大それたことはありえないことだ、それは心の綺麗な尊い方だけが
できることである」と、完全に心から捨てました。
捨てるまでにはもういやという程、己を見詰めたのですが、
どうしてもできないのです。

そして天を見ていると、木陰の葉こぼれの光彩がずっと入ってきて、
その何ともいえない光を見ていると、
「あんなふうに光を頂けたらいいのになあ」とまた欲が湧いてきて、
もう一回起き上がったのです。
しかし自分ではもうどうしようもない、
もしも守護霊様が私についていて下さるのならと思って、
「守護霊様、私はどうしてもできません。どうぞ
正しい反省の仕方というものを私に教えて下さい」と言って、
一生懸命お祈りしたのです。

その時、ほんとうに不思議なことに右前方の手の届く辺りに、
私の幼い頃から四十半ばまでの間の自分の姿が映し出されて、
みんな見せていただけたのです。

それこそ立体的で、
その当時のありのままの姿・行動・出来事などが見えました。
どのくらいの時間が過ぎたか分かりませんが、
あまり長い時間はかからなかったと思います。

まさに意識の世界は時間、空間、距離というものとはいっさい
関係がないということをはっきりと分からせてもらったのです。
その自分の姿はまた何ともいえない哀れなものでした。
自分に与えられた環境の中で、
「ああしたい」「こうしたい」と思いながらも
どうすることもできない柵(しがらみ)にがんじがらめになりながら、
必死に生きている姿を、まざまざと見せられました。


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「御垂訓」

2020-02-08 00:54:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

だから何回見方を変えてみても、
出てくる答えは自分自身を責める思いしか出てきません。
自分を許すことはできないものと思っておりました。

皆様も、過去にあった間違いに対して完全に心から許している方は
ごく稀だと思います。
自分を許せないのが、自分の良心です。
自分は悪いことをしたと、その良心が自分を責めるのです。

反省させてもらって、
自分というものを見てきた時、許せないものだから、
「草一本、木の枝一つにしても人様のものを取ってはならないことを
知っていながら、どうしてそのようなことをしたのか、
これはいけないことだ」といって、自分を責めたてるので、
どう見ても反省ができないのですね。

何百回繰り返しても同じ答えしか出てきません。
そこで、私のような者が法灯を頂くのは無理だと諦めました。
集中的な反省は、自分の心に法の灯を頂くためにするそうです。

例えば、夜の真っ暗な部屋に机や物が置いてあり、
皆さんがその中にいたとします。
真っ暗だからどこに誰がおられるにか全く分かりません。
小さいローソクの灯が一本でもあれば、
ああここに居るなあということが分かります。

私たちの心の中は反省ができていなかったら
真っ暗な部屋と同じことだそうです。
真っ暗な心の中を反省して、ある一つを越えた時に、
心に小さい法の灯が点るそうです。
その法灯を頂くために反省をするのですね。
ローソクが二本になったらまたよけいに明るくなります。
よく反省して法の灯が心の中に何本も点ったら、
小さいごみが落ちているのまで見えるはずです。


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「御垂訓」

2020-02-07 00:20:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

その時、もし羽があれば飛んで帰ってでも土下座して母に
お詫びがしたいという気持ちが湧き上がってきました。
しかし羽はありませんし、帰れないので、
すぐ電話をさせてもらったのです。
電話の向こうで「もしもし」という母の声を聞いたとたんに、
心は幼な子に返っていました。

私は子供の頃、母を「おかあちゃん」と呼んでいたのです。
電話でその声を聞いたとたんに、
「おかあちゃん、堪忍してや」といったまま受話器を持って
ワンワン泣いてお詫びしていました。

母親の愛というのは有難いものです。
突然電話に出て、幼い頃の呼び方で「おかあちゃん堪忍して、
おかあちゃん堪忍して」と泣いたら、
「お前、頭は大丈夫か、頭がどうかなったのと違うか」と
気遣ってくれます。

「僕は幼い頃から親不孝ばかりしてきました。どうぞ許して下さい」
と言いますと、「頭は大丈夫か」と尋ねられたのです。
「私の言っていることは頭がおかしいように聞こえますか」と聞くと、
「いや別におかしゅうはないけどな、いい歳をしてそんなに泣くな」
親というものは何を知っても心配して下さいます。
次には、どうしようもない罪深い己自身の姿ですね。

その時、今反省させてもらっている自分の意識でもって、
幼い時の悪ガキの己自身に対して、
「やさしい提言」を与えなさいと教えられました。
優しい提言といいますと、これは難しいことです。
つまり自分に、慰めと励ましを与えなさいということです。

「あなたは幼い頃から、これはしてはいけない、
これはしてもよいことをよく知っていました。
それなのに親に嘘をつき、他人の山へ竹を盗みに入って、
自分の大事な肉体に傷をつけて、
あなたはほんとうにいけない子です」というように、
自分を責めることしか思えないのですが、
「今度はがんばりなさい」と励ますのです。

私たちの思いにおいて、
「人様には寛大に、己には厳しく」という生き方が基本にあって、
自分を許すことは、自分に甘くなることだと思い込んでいましたから、
自分には厳しくして、
人を許してもいいけれど自分を許してはいけないと思っていたのです。


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「御垂訓」

2020-02-06 03:47:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

この時、親に友達の名前を告げたはずです。
そこで、友達の立場に立って考えた時、
自分の所へ遊びにきていないのに、
来て怪我をしたと言われたら、
その友達はどんな思いをしただろうか、また
どんな思いで私という人間を見たであろうか、
相手の立場に立って自分を見た時、
「ああ、申し訳なかったなあ」と思います。

私は幼い頃から、想いの中ではなんと悪い奴、
悪智慧ばかり働いて、
嘘をつくことばかり思って、
何と嫌な人間だということがよく分かります。

次に母の立場に立って考えてみました。
母は足の怪我を見てびっくりはしましたが、
これは友達の家で怪我をしたのではないことぐらい
分かっているはずです。
血止めの草をすりつけてボロ布で巻いているのですから、
これはおかしいなと思ったはずです。

そのことよりも、
「ああ痛かったやろうな、可哀相になあ」という
母の愛のほうが大きいのです。
その母に対して、小さい七歳の私が嘘をついている。
その己というものを見詰めた時に、「何と申し訳ない、
お母さんの愛に対して幼い頃から嘘をついていた私、
どうか許して下さい」と泣いて、泣いて
お詫びをさせてもらったものです。




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「御垂訓」

2020-02-05 00:41:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

「えらいことをしたなあ、何と言い訳をしようかなあ」と、
七歳の幼い頭で一生懸命考えたのですが、いい考えが出てきません。
家の近くまで帰って、
私の家と隣の家との間が一メートル近く空いているところへ、
冬の間は田の稲を干す長い木が使わないでかこってあるのですが、
その隙間へ入って、
「どうしようか、どう言って親に言い訳をしようか」と
思いあぐねていました。

他の山へ木を切りに行って、
自分の足を切ったと言えば怒られますから、
何とか逃れる方法はないものかと考えているうちに外が暗くなり、
もう仕方がないから勇気をふるって家の横の入り口から
「ただいま」と言って入ったのです。

「遅かったなあ、今まで何してたのや」と母が聞くので、
「友達の所で遊んでいて怪我をした」と言ったのです。
その時、母は「ちょっと見せてごらん」と言って「こんな汚い布で。
どうして向こうのおばちゃんに言って案配してもらわなかったのや、
こんなえらいことになっているのに、痛かったやろう」と薬を塗り、
新しい包帯をしてくれたのです。

その時、私は大きな嘘をついているのですが、
親はそんなことには関係なしに「ああ痛かったやろうなあ、
可哀相になあ、辛かったやろう」
「友達のお母ちゃんはなんで按配してくれんじゃったろう」と
言ってくれたその事を、ずっと反省させていただきました。

不思議なもので、
三日、四日、五日と坐って一つの事をずっと追求しますと、
その時の場面がほんとうにそのまま出てくるのです。
私が足をパアッと切った時の感覚がはっきりと出てきます。
あの時の肉が裂けたあの感覚がはっきり再現されるのです。
だからほんとうに反省に取り組むと、
その時の状況が詳しく思い起こされます。


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「御垂訓」

2020-02-04 01:25:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 十七

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

たまには遊びたいという思いが昂じて、或る時、
嘘をついて畑へ行くのをさぼったのです。
「今日は友達とどうしても勉強しなくてはいけないから」と、
親に嘘をつき鉈(なた)を持って、竹トンボを作る竹を取りに
よその竹藪へ行ったのです。

そこは凄い急斜面の竹藪で、
小学校に入って間のない頃ですから私にとっては
ちょっとした冒険です。
竹藪の中に入って手ごろな竹を見つけ片足を
その斜面にあげて
落ちないようにしてから鉈を振り下ろした時、
自分の足をスパッと切ってしまったのです。
足の外踝(くるぶし)の上十センチ辺りに
鉈が当たってしまいました。

ここは案外血管も少なく骨が近いところですから
パカンと割れて真っ白な身と中の骨が見えています。
さあ、これはえらいことをしたと思いました。

もし畑とか仕事をしていて怪我をしたのなら。
「お母ちゃん、えらいことした、
何とかして」と言えるのですが、
嘘をついて隠れて悪いことをしたのだから
言うこともできません。

まず血が出ないようにしなくてはいけないと
考えたのです。
私は田舎で育ったので
薬草や血止めの草のことをよく知っていましたから、
血止めの草を取って、ぐっとしぼって傷につけて、
その上から血止めの葉で押さえ、
ここを何とか括(くく)らなくてはいけないと
思って、やっと道まで
出てきて、道の端に落ちていたボロ布で
足を縛ったのです。


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「御垂訓」

2020-02-03 00:24:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十七

「正しく定に入るべし」

正しく定に入るとは、自分の心をよく見つめて
「反省」をしたあと、一時の安らぎの時間を
持つことです。
今日は「反省」について学びたいと思います。

反省とは、自分が生まれてから今日までの間に
どれだけの過ちを犯してきたか、それは、思いの中で、
言葉の上で、
また行いの上でどうであったかと徹底的に自分を見詰め
自己反省をすることです。

幼い頃の反省に入りますと、必ずお母さんが出てきます。
もし友達と喧嘩して、友達に傷をつけたり
友達を泣かしたりした時、
お母さんはわんぱく坊主に代わってお詫びに行って
下さいます。
また何か悪いことをして見つかった場合や
他の物を盗んだ時には、
やはりお母さんが謝りに行って下さいます。

私が幼い頃を反省した時の話をもう一度今日させて
いただこうと思います。
私が小学校一年生の時ですから、
七歳ぐらいの頃のことです。
友達は百姓の子もあればサラリーマンの子もあり、
お店をしている家の子もいました。
そういう子供たちは全部遊んでいます。

私の場合は水呑百姓ですから学校から帰って
鞄を置くなり、
「今日はどこの畑へ来なさい」と言われて、
すぐ鎌か鍬を持って畑へ行くのです。

そして畑の側で遊んでいる友達を見ては、
「ああ僕もいっしょに遊びたいなあ、
羨ましいなあ」と、常に友達と自分を比べて、
皆は遊んでいるのにどうして僕だけ畑へ
行かなくてはいけないのかと、
自分の運命を思ったものでした。


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「御垂訓」

2020-02-02 02:51:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十六

「かくのごとき正法の生活の中にこそ神仏の光明を得
迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり」

先の続き・・・

お釈迦様の当時のインドは、ガンジス河(ガンガ)は川幅も広くて、
こちらに住んでいる者にとって対岸は、すばらしい世界に思われて、
向こう岸はいいなあと思っていたのです。
それを仏教では「悟りの世界」と説かれたのです。
その向こう岸が彼岸です。

春と秋に「お彼岸」がありますが、あれは向こう岸のことで、
それは苦しみのない安らかな悟りの世界です。
その世界へ渡るためには「八正道」を実践しなさいと説かれています。

心に神仏の光明を頂いた時に、神仏の心と己の心が調和され、
一体となることができます。
調和とはバランスでありハーモニーのことです。
大変難しいことですが、神様の御心を人間が行ないをもって現した時、
神の心と調和されるはずです。

ですから日々の生活において、
自分が可愛いという自分を甘やかす生活を
ある程度犠牲にして、他への愛を実践することです。
神の御心である差別をすることなく、
どなたとも平等にお付き合いをし、
人を責め裁くことをせず、どなたもみな許させていただくことです。

そして無償であること、
他からいっさいのものを求めず、たださせていただくことです。
太陽は私たちに幸せになる方法をちゃんと教えて下さっています。
太陽の心を実践した時、必ず幸せが約束されます。
なぜかというと、自分の心が苦しまないからです。


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「御垂訓」

2020-02-01 00:37:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 十六

「正しく定に入るべし」

先の続き・・・

知って犯す罪は、「ああ、えらいことをしたなあ、
あんなことをしなければよかった、しまったなあ」と思います。
罪だとしらなかったら、そのように思えませんから、
知らないで犯す罪のほうが重いと、教えられているのです。
知って犯す罪は改めることができます。

知らなければ改めることができないから、罪が深くなります。
このように八つの正しい生き方をさせていただくことは、
幸せになるいちばん大切な根元であると説かれています。
正法というものと反省とは切り離すことはできません。
常に己を見詰める練習をすることです。
他を見詰めなくていいのです。

反省する時、自分を見ないで他を見詰め、
「あの人はあそこが悪いな」と他を見ることは、反省と違います。
これは人を裁いているのです。
私たちは己を見詰めなくてはいけません。
今日まで過去において私たちは人に知られたくないこと、
誰にも言いたくないこと、
そういう罪をいろいろと背負っているはずです。
失敗、過ち、罪、それらを覆い隠して生きているのが我々凡夫の姿です。
「反省」とは、それらを一つ一つ掘り出していくのです。
そして、いちばん人に知られたくない、
いちばん嫌いな自分自身を引き出すことです。

「かくのごとき正法の生活の中にこそ神仏の光明を得
      迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり」

「八正道」の生活を実践した時に、私たちは求めることなしに
「神仏の光明」が与えられます。
私たちの生きるこの世は迷いの岸です。
そして向こうの岸というのが悟りの彼岸です。
私たちはこちらの岸で迷っていますが、「八正道」を
実践することによって向こう側の悟りの岸へ到達することができます。



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