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東北のこどもたちと北京へ~その4 宋慶齢故居での植樹

2012年04月13日 | 日中友好
東北のこどもたちと北京へ~その4 宋慶齢故居での植樹




市内から少し離れた后海という閑静な場所に
晩年 宋慶齢女史が暮らしていた故居と記念館がある。

私の祖母も生前、宋慶齢女史が暮らしていたこの場所を訪れているし、
2010年9月にはこの場所で
<孫文・宋慶齢と梅屋庄吉展>が開催された。


今回の東北のこどもたち100名の招待は
この宋慶齢基金会によって実現、運営された。
宋慶齢女史は言わずもがな、
宋家の三姉妹の次女であり、
孫文の妻となり、
中華人民共和国副主席から名誉主席になられた方だ。

児童福祉に力を注いでいたので
その精神を受けついだ基金会は国際的に児童福祉に関することや
青年交流を行う組織である。




宋慶齢基金会主席の胡啓立先生と村山富市先生



宋慶齢基金会の幹部の皆様




恒例のお土産交換








私も手書きの桜の絵の扇を胡啓立主席にお渡しした



胡主席からはパンダの屏風をいただいた




幹部メンバーでの記念撮影








この日、
東北のこどもたちに加え、
四川大地震で親を亡くした子供たちもここに呼ばれていて
みんなで
桜の木やカイドウの木を植えた。


私も会見の後
植樹に参加。


















こどもたちと胡主席と村山元首相










四川大地震で親を失ったこどもたちの手を
村山元首相がつないで、広い園内を散歩、

胡主席は東北のこどもたちに話しかけた。










こうして
宋慶齢故居の広い庭に
沢山の木が植えられた。


こどもが大好きだった宋慶齢女史も
天国で今日の日のことを喜んでご覧になっていらっしゃるだろう。



この後、
市内に戻り、簡単な夕食を済ませた後、
雑技団を観る、という夜までびっしりの、スケジュール

東北のこどもたちと一緒に北京へ~その3 天安門広場から故宮散策

2012年04月12日 | 日中友好
東北のこどもたちと一緒に北京へ~その3 天安門広場から故宮散策








お天気にも恵まれ、
人民大会堂の目の前の天安門広場で記念撮影。








緊張もほぐれてきて
同行した高校生たちと会話がはずむようになってきた。














たくさんの人が観光に訪れる故宮の入り口










歩きながら話をすると
彼らは見た感じはどこにでもいる中学生・高校生なのだが

両親を地震や津波で亡くした、
家が津波で流されてしまった、

というあまりにもむごい、つらい経験をしたこどもばかり・・・・だった。


私は
言葉を失い、涙がこみあげてきそうになった。

彼らの背をさすって

”強いね。”と言うと

”はい、頑張るしかないっす。”と。












故宮は私が北京で一番好きな場所。

























朝早くから
人民大会堂での会見、
そのあと
広大な敷地の故宮を散策。


お腹すいたぁ~という声もちらほら。。。。

ランチの後、
午後は宋慶齢故居へ向かった。









東北のこどもたちと一緒に北京へ~その2 人民大会堂

2012年04月12日 | 日中友好
東北のこどもたちと一緒に北京へ~その2 人民大会堂









実は私が今まで数回
人民大会堂でのレセプションや大会に参加した際には
<手ぶら>が原則だった。

カメラや携帯の持ち込み、ハンドバックもNGだった。


・・・のに、今回は
超特別な待遇で、こどもたちもカメラや携帯の持ち込みOKであった。



なので、私もやっと人民大会堂で写真撮影することが出来た。






最初に
村山冨市元総理と日中友好協会の事務局長と私、代表の引率の先生方は
国務委員の劉女史との会見を行った。




村山元総理、お孫さんと私




人民大会堂の天井













息子も人民大会堂デビュー! 若干15歳は早い。
私は大学2年の時だった。




上海の間




劉女史と村山先生、会見の後の
恒例、お土産交換。







その後、劉女史は
こどもたちにお会いになり、中国の要人としては
普通では考えられないほど長時間にわたり
こどもたちに向けてスピーチをされ、
一緒に記念撮影。






こどもたちは緊張もあり
また長時間立っていたこともあり
若干疲れていたようだが

なかなか入ることの出来ない人民大会堂で
中国の要人と写真を撮り、
お話を直接伺う、という貴重な経験は
大人になっても忘れないだろうし、
そのことの持つ大きな意味を後にかみしめることになると思う。






人民大会堂での行事が無事終了。
今度は天安門広場~紫禁城へ。。。。





東北のこどもたちと一緒に北京へ~その1  歓迎式典

2012年04月12日 | 日中友好
東北のこどもたちと一緒に北京へ~その1 歓迎式典



2012年3月28日~31日まで
東北で被災した4県のこどもたち(中学・高校生)と一緒に北京に行った。


これは中国宋慶齢基金会の招待であった。
私は中国宋慶齢基金会の理事であるので
この企画に賛同し、同年齢の息子とともにボランティアとして参加した。


出発に先立ち、前日の3月27日 成田のホテルで壮行会が行われた。




程永華中国大使のごあいさつ




村山富市元総理のごあいさつ




子供たちの代表が元気良く出発のあいさつを。。。



今回の団長を務めるのは
88歳になられる村山冨市元総理。

仙人のような長いまゆげは
中国でも人気。

今回はお孫さんとご一緒の参加。



翌朝、JALにて北京へ。


北京の空港ではにぎやかな出迎えと
歓迎式典が行われた。







私も大きな花束をいただき、
いつも北京でお会いする宋慶齢基金会の皆様との再会。







実はこの後、アクシデントが。。。

私はVIP通関でさっさとホテルへ向かったのだが
息子だけ空港に取り残され、
なんと3時間後、やっとホテルで再会。

まさか親子で一緒に北京に来て
別行動になるとは思わず、しばしパニック。

が、当の本人(息子)はわりとケロっとしていて
海外ではいろんなコトが起きる、といういい勉強になった様子。


まずは宿泊先である<21世紀飯店>も敷地内にある
中日青年交流センターを見学。











敷地内には日本と中国のさまざまな青年交流が行われる施設、
プール、テニスコート、料理教室の調理室や茶室などがあった。


やはり、食事の席も私と息子は別々で、
息子は茨城から来た高校生たちと一緒。









宋慶齢基金会の李寧秘書長とは古くからの友人。
今回のプロジェクトでは中心的な役割をされていた。






初日はこうして
空港で親子離れ離れになる、というアクシデントがあったものの
息子の成長に助けられ、
大きなトラブルにはならずに終わった。


参加した子供たちはまだ初日とあって
若干緊張気味。


2日目以降、
少しづつ、緊張もとれ
私も彼らと色々な話をしながら
スケジュールをこなした。




今、を生きるということ

2012年04月02日 | memory
今、を生きるということ



たった今、メールである方がお亡くなりになられた、というお知らせをいただいた。

その方は
昨年、ちょうど一年くらい前に
その方が主催する会で私に<孫文と梅屋庄吉>の講演の機会を下さった方だった。


そんなにご高齢でもなく、
講演会の後の飲み会でも楽しそうにお酒を召し上がれていて、
一緒に
杭州を旅しましょう、と約束もしていた。
7月にメールでお誘いがあった時に、私は別の出張が入っていてご一緒出来なかった。
その時に<また、今度。>という言葉を使った。

でも、その<また、今度。>は来なかった。




<いつか出来たらいいね。>
<いつか行けたらいいね。>
<いつか行ってみたいね。>

その、
あいまいな<いつか>というのは
来ないかもしれない。

だから、私は
可能な限り、行ってみたいところに行ってみる。
可能な限り、会ってみたい人には会いに行ってみる。

そして、そのあいまいな<いつか>という言葉は、
あまり
好きではない。











毎日、忙しく過ごしているうちに時間は過ぎ
一年はあっという間、という言葉を良く口にする、あるいは
耳にするけれど

<時>を生きることについて
実は本当に
すごい偶然の重なりで、ありがたいことだということを
感じながら
大切にしたいと改めて思った。。。


私は特に曽祖父 梅屋庄吉関連の活動をしていて
さまざまなプロジェクトが持ち上がり、
実際に成ったものと、
成らなかった幾つかのものがあった。


成ったプロジェクトに関して言えば

その時、その人が、そこにいなければ
成らなかった。。。ということである。

つまり、いつでも、誰でも、出来ることではなく
すごい偶然で引き合わされたメンバーが
そこに思いを同じく出来てはじめて、
形になるのであって、

そこにその誰かが欠けても、形にはならなかったとつくづく思う。


だから、
同じ思いを抱いて、引き寄せられた目の前に現れた人を大切にしたい、と思うので、ある。


その人が
いつまでも、目の前にいるわけではない。
今、
大切にしなければ・・・。


だから、
私はそのあいまいな<いつか>という言葉が
あまり
好きではない。









桜の花の季節は
母が天国に行った季節でも、ある。


母は私にとって

この世で一番、ココロも姿も美しい人であった。

ココロが美しすぎて
にごり水を流すことが出来ず、自分の中にため込んでしまって
リンパの癌になってしまった。

私が子供のころから
母が元気でいた姿はあまり見たことが無い。

いつも身体が弱く、
どこか具合が悪かった。
でも、
いつもとても美しかった。


身体が弱い母は
それゆえにあまり、旅をしなかった。

父は昔の日本の男性なので
自分は世界中の美味しいものを食べて、旅行をしているのに
母を連れていくことはなかった。


母の晩年、
私は小さい息子と母と3人で良く旅をした。
本当はもっともっと
色々なところに連れて行ってあげたかった。

母は
<またいつか、行けるといいね。>

と言っていた。

でも、もう、その<いつか>は無い。


だから私はそのあいまいな<いつか>という言葉は
あまり
好きではない。








今を生きる、というのは
人によっては難しい、と感じることもあるだろう。


世間体とか、
家族とか、
まわりを気にして

自分が
<今>大切にしたい人や
<今>行きたい場所や
<今>やりたいことを選択しない・・・ことのほうが

正しい、

とされている、あるいは思いこんでいるから。



自分が自信を持って
<今>自分が求めているものに正直に生きること。

そうしているうちに
周りの人や世間の言うことなんて
そのうち消えていく。

天国に行った時、
悔いるのは

世間体を気にして
本当に自分が求めていたことをしなかったことだと思う。


ああ、世間様に逆らわずに
周りに波風立てずに
自分の大切にしたい人、自分の大切にしたいものを選ばなくて良かった。。。。とは

決して思わないと思う。




私も母が生きている時には
周りの人の言うこと、
とりわけ家のこととか、考えすぎて選ばなかった、選べなかったことが、ある。


母の死が教えてくれたもののひとつに、

<今>はもうやってこない、ということが、ある。





それからは、

たとえば、周りの人に何か言われても
<今>行きたいところに行ける範囲で行き、
<今>会いたい人に可能な限り会いに行き、

せっかくの大切な時間は
好きな人と過ごしたいと思うようになった。


忙しくても、
本当に会いたい人とは何とかして会う時間は作れるということも
わかった。


だから私は
そのあいまいな<いつか>という言葉が
あまり
好きではない。



・・・突然の、訃報のメールと
咲き始めた桜が母を思い出させて

<今>は
今しかない、ということをあらためて感じた、
午後の、独り言。