前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

ハイドン先生とモーツァルト つづき

2009-09-19 12:28:11 | クラシック音楽
モーツァルトの交響曲第41番ハ長調『ジュピター』


大変おこがましい言い方かもしれませんが、
この曲は単にモーツァルトの天才の煌きというだけでなく
「人類の英知の結晶」ともいうべき作品だと思います。

きっと作曲家や指揮者、演奏家の方々は、
私のような素人よりも遥かに
この曲の凄さを体感していることでしょう。
とても羨ましく思います。

それでも(私のようなものでも)
『ジュピター』の第4楽章を聴くたびにいつも
(たとえそれが通勤中の電車の中であっても)
人類の英知に触れた感動を受けます。

私にとっては「名曲」「傑作」という以上のものです。


ハイドン先生はモーツァルトを次のように評しています。

 「100年後の世界でもこれほどの才能が出現することはありません」
 (井上太郎さん『ハイドン106の交響曲を聴く』より)

モーツァルトが時代を超越した天才であることを
見抜いていたのでしょう。


「天才」というと、何もない地平に
突然舞い降りてきて全く新しいものを作り出す、
という感じがありますが、実はそうではありません。


能動的に学んだ知識や収集した情報だけでなく
ほんの一瞬視界を横切った映像や何気なく耳にした言葉など
特別意識していなくても五感が捉えたものは
全て脳の中に蓄積されていきます。

きちんと本棚に整理されているものもあれば
ごちゃごちゃと物置に押し込んだものもあるでしょう。
それらを全部部屋にぶちまけて、
今まで誰も思いつかなかったもの同士を組み合わせて
全く新しいものを創り出す・・・。

その能力がずば抜けて優れている人を「天才」と呼ぶのだと思います。

でも、もともと本棚や物置が空っぽだったら、
どんなに才能があっても何も産み出せません。


若く輝ける才能を見抜いた、お手本となる先達がいて、
その偉大な先達の技術を貪欲に吸収し超えようと努力した結果、
「天才」は大きく花開いたのではないでしょうか。