老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

751;人は何故生きるのか

2018-05-20 23:15:23 | 老いびとの聲
blog749から 
人は何故生きるのか。
それは自分に対する問いかけでもあった。
余輩は何故に生きているのか。
老いの齢を迎え、今更ながら考え悩むテーマであろうか。


先週の金曜日
朝、民放テレビで
全盲の弁護士・大胡田誠&亜矢子夫婦のことが
放映された
そのなかで
大胡田誠さんは
「自分のために生きるのは辛い。
誰かのために生きる」と話されていたのを聴き
はっとした。

誰かのために生きる。
人は何故生きるのか。
それは
誰かのために生きる。
余は誰のために生きている・・・・・。

自分の老いと重ね合わせながら
数年ではあるけれど
誰かの老いと介護を
悩み行動していく
そのなかで生いと老いの意味を
自問自答してみようか

 









750;よい介護とは・・・・

2018-05-20 20:14:01 | 老いびとの聲
「く」の字にならず死にたい
 
老いた人が寝たきりになり、
介護されぬまま放置されると、
母親の胎内に居るときと同じような状態になってしまうのは、
何故か不思議な気がしてならない。

両手は握り拳になり、肘は「く」の字に曲がり伸びない。
脚も同じく「く」の字に曲がったままになり、
四肢の状態は胎内のなかで羊水に浮かぶ赤ん坊の姿に似ている。
 
病院や介護施設で老人の四肢が拘縮し、
褥瘡ができたまま逝くほど、
痛々しく辛く切ないものはない。

両膝が伸びず「く」の字に曲がったまま柩に安置したとき、
棺の蓋が閉まらないため、
葬儀屋は遺族の知らないところで、
脚の骨を折る。
それは、
拘縮した膝関節を「真っ直ぐ」に伸ばすことにより、
棺に納まる。
「死人」だから「痛く」ない、と思われるけど、
「死人」であっても脚の骨を折られるのは
「痛み」が伝わってくるようである。

褥瘡ができるのは「看護の恥」と言われるが、
手足が「く」の字となり拘縮したまま亡くなるのは「介護(ケア)の恥」である。
死後のことも思い遣りながら介護を為すことも大切である。

両手の指は合掌するように組み、
両脚は真っ直ぐに伸び、
褥瘡もなく、
眠るような顔で逝きたいものである。

よい介護とは
脚の骨を折らずに
柩に納まるご遺体のことをいう