アメリカディゴ
アメリカディゴは旅行先の南国土佐ではじめて見た。
かれこれ30年にもなるだろうか。
高知のはりまや橋に通じる通りに、街路樹として植えられていたように思う。
ガイドさんが熱心に説明してくれたから名前は一度で覚えた。
頭も若かったのだろう。
その後熱帯を旅して、鮮やかな赤に引かれて近寄ると、この花の類であることが多かった。
上野公園 西郷さんの銅像前のディゴである。
アメリカディゴ
アメリカディゴは旅行先の南国土佐ではじめて見た。
かれこれ30年にもなるだろうか。
高知のはりまや橋に通じる通りに、街路樹として植えられていたように思う。
ガイドさんが熱心に説明してくれたから名前は一度で覚えた。
頭も若かったのだろう。
その後熱帯を旅して、鮮やかな赤に引かれて近寄ると、この花の類であることが多かった。
上野公園 西郷さんの銅像前のディゴである。
本物のパンダ
大臣表彰を受けた翌日動物園でパンダを見た。
パンダの人気はすごい、小さな学童たちが大勢来ていた。
40年も昔 子供達を連れて上野を訪れた、それ以来の動物園である。
あの日と同じようにパンダは笹を食べていた。
象もライオンも猿もあの頃のままである。
同じ動物がそこにいるようで、何とも不思議な光景であった。
ガマズミ
今年のガマズミは良い花が咲いたので、秋の彩りを楽しみにしいた。
しかし 実付きは今一つで不満である、花の盛りの雨が影響しているのかもしれない。
電車に乗って厚生労働省に行く日である。
仕事関係でカミサンと電車に乗るのは初めてである。
沙羅黄葉
10月は素早く過ぎて行くようだ、早い日暮れがそれに拍車をかける。
10月初めの神道祭りが終わると、大人たちは冬籠りの準備を急がなくてはならないと、せきたてられるように忙しかった。
山の中の日暮れは一段と早い、谷の向うの峯々にまだ日射しが残っているのに、谷間の小道はもう宵闇が迫っていた。
遊び呆けた子供たちは、峯の松風を天狗の羽団扇と聞き、己の擦り切れた藁草履の音が山犬の忍び足に思えて、半べそかきながら家路を急いだ。
天狗は羽団扇を巧みに使って 大木から舞い降りて、子供をさらってゆく、神隠しは天狗の仕業であった。
いつも腹をすかせた山犬は、歩きの遅い子供を襲って食べてしまう、犬たちは貪欲で、頭髪1本まで残らず食べ尽くす。
子供が風呂に入ったように着物だけが残っていたという。
ほととぎす
百合の花を好まれた方の葬儀を終えて、晩秋の草むらに時鳥を見つけた。
百合科の中で一番後に咲く花である。 雲に隠れた高嶺は雪が積もっているかもしれない。
メモリアルコーナー
喪主 挨拶から
「私は二度 母から大きな世話を受けました、最初は皆さんと同じ赤ん坊の時です。
そして 大学在学中全身が麻痺する難病にかかり、東京の病院に入院した私は、赤ん坊より手数のかかる身体になっていました。
この時 母は病院の近くに泊まりこみ、食事は勿論 しもの世話までを1年以上にわたって続けてくれたのです。
母はいつも笑顔でした、辛い闘病生活の中で、その笑顔が私の心を支えてくれました」
先般開催の蕎麦イベントは松本城祭りの一環である。
当日城内は無料開放(天守閣への入場は有料)され観光客でににぎわう中に、和服姿に「国宝松本城おもてなし隊」と墨痕鮮やかな襷をかけた若い女性が見えた。
彼女達は客の求めに応じて、観光案内やカメラのシャッター係、被写体として 忙しく立ち振る舞っていた。
鎧武者は気軽にツーショットに応じたり、男の子を相手に抜き身のチャンバラに興じていた。
松本城おもてなし隊員が来場者を「おいでなさんし」と云って迎えたかどうか聞きもらした。
コスモスの向こうに
先日の蕎麦祭りで、人気の高い、とうじ蕎麦の店に立ち寄った、「具に松茸が入っているの?」と聞いたら、今年は不作でとても無理ですと返ってきた。
山に詳しい人に聞いても、林や森に茸が見当たらないという、夏の暑さや9月の長雨等今年の気象が茸の生育に不適だったようだ。
それでも全く出ないのではなく、出るところには出て、採った人は「採った採った」と騒いでいる。
その上不作なので高値がつくらしい、戦果に尾鰭がついて、「〇〇さんは一朝で10万円稼いだとか、20万稼いだ」という話が伝わって来る。
店頭に1本数千円と値が付いている所を見ると実話かもしれない。
コスモスの向こうにぼんやりと常念岳が見えていたけれど、写真では消えてしまった。
もうすぐ初冠雪が見られるだろう。
晩秋 夕焼け
いつか来ることと思っていたことでも現実になると動揺する。
昨日 入社以来今日まで大変お世話になった、創業家中嶋さんが永眠された、今春以後体調が思わしくなく、会う毎に私は不安を大きくしていた。
訃報を受け、私自身の年譜に、付けるべき区切りの存在を実感した。
私は創業家から経営を預かり、曲りなりのもそれを全うし、次代に引き継ぐことができた。
勿論そのことは特筆すべき大きな区切りである、しかし企業歴史の深淵に立ち入って考えた時、やり残したことへの漠然とした物足りなさが残った。
それは先代が最も心を砕かれた創業家族の安寧についてである。
特に会社経営から一線を画した創業家の存在は、代を経るごとに薄められてしまう。
まして 持株会社等による経営統合が進むとその傾向は顕著にあらわれてくる。
しかしながら、次の飛躍に向かう時、それは大変重要なことであると認識している。
区切りとは、私にとってそういうことの葛藤の中から導き出すものと考えている。