皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

新しい靴を履くときは

2020-01-14 22:48:51 | 風の習わし時を超え

明日は小学校の林間学校。小学5年の長男がずっと楽しみにしていたようだ。那須甲子高原へ1泊の予定だ。僅か2日間であるが雪や自然に存分に触れて帰ってきてほしいと願う。但し暖冬の影響で雪は少ないと聞いている。ともあれ元気に行って帰ってくれればそれでよい。

 今時分、せっかくの林間学校もスキーは予定にないらしい。雪遊びだけの予定と聞いている。恐らく学校の準備等負担減のためだと思うが、ウィンタースポーツを経験する貴重な機会がなくなってしまい、やや残念にも思う。

 それでも家庭の準備はしっかりさせて、特に現地で必要とするスノーブーツは新調した。長靴ではなくスノーブーツ。残念ながら姉の靴はサイズが合わず、新しいものを買ってきた。前日の高揚感からか室内で靴を履きだしてはしゃいでいる様子であった。子供なら誰しもやったことがあるだろう。

屋内で靴を履く文化圏も多い。アメリカがその典型であろうか。ヨーロッパでも靴を履く国と脱いで生活する国とがあるようだ。生活文化についても様々だ。

 「新しい靴を履いてそのまま外へ出てはならない」そう子供の頃教えられた。どうしてなのか訳は知らなかった。父や祖母にそうさとされたことだけは覚えている。

 古くからの禁忌に由来するらしい。理由は葬儀の出棺儀礼による。

今では葬儀場は各地にできて、葬儀場から火葬場へと出棺となるが、私が子供のころまでは自宅で葬儀を営んだものだ。昭和五十八年祖母の葬儀のことは記憶にある。藁ぶき屋根の古民家である自宅で葬儀が行われた。当時でも霊柩車で出棺したが、それより前は野辺送りで棺を担ぐ人が座敷や縁側で新しい草鞋を履いて、庭先に出たという。

 新しい履物を履いたまま外へ出るというのは、そうした葬儀儀礼の一環で、普段の生活ではやってはならぬこと。そうした風習が禁忌として伝えられていたとう。履いていた草履は墓地から帰る途中捨ててくるのが儀礼だったようだ。同じような意味から縁側から客人を招き入れることを禁忌とした地域もあるという。

世の中が豊かになって、住宅も生活様式も一変して久しいが、古来から大事にしてきた考え方、儀礼についてその意味を忘れることなく、伝えていかねばと感じている。

 

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松の内から松過ぎへ

2020-01-14 21:51:11 | 風の習わし時を超え

 早いもので一月も半ばを迎え、正月もすでに過去のこと。門松のある期間を「松の内」正月の門松を片付けたあとを「松過ぎ」と呼ぶそうだ。明日15日は小正月で左義長として正月飾りを焼くところも多い。地域によって異なるというが関東では松の内は7日まで、関西では15日が風習となっている。

門松は松や竹を用いた正月飾りで、歳神を家に迎え入れるという依り代の役割があるという。「松は千歳を契り、竹は万代を契る」とも言われ松と竹で依り代が永遠に続くように願う。

 松は冬でも青々とした常緑樹で「祀る」に通じ、中国から平安期にこうした風習が伝わったようだ。中国では正月に松を飾る地域は限られていて、邪気を払う桃や札が飾られるそうだ。

 門松の中心には竹が目立つがこれは鎌倉以降のこと。また興味深いのは「削ぎ」と 「寸胴」の2種類があること。

古くは寸胴型で現在でも銀行など金融機関のまえに飾られることが多いという。

節で区切られることによって「中身が詰まっている」「お金がたまる」との願いが込められるという。

一方竹を組み合わせて斜めに削いだのは一説によればあの徳川家康だといわれている。

「三方ヶ原の戦い」(1572)で敗れた後、「竹(武田信玄)を袈裟切りにする」という意味を込めたという。

門松を片付けることを松下ろし、松払い、松送りなどとよぶ。松にしろ竹にしろ節目を重んじてきた日本人の気風が表れているようで面白い。今年は暖冬で寒さも緩いが、松が過ぎれば大寒で、節分へと季節も流れていく。

 

 

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二百十日と風の盆

2019-08-30 23:37:18 | 風の習わし時を超え

 明後日九月一日は立春から数えて二百十日。八朔、二百二十日と共に農家の三大厄日と呼ばれる。季節の移り変わりの目安となる季節点の一つで、台風が来て荒れやすいとされる。「二百十日の嵐除け」として農村部を中心に風神祭を行うとことも多い。

大神神社の「風鎮祭」、富山の「おわら風の盆」といった風鎮めの祭りも行われる

 富山県八尾町の「おわら風の盆」はまさに二百十日の九月一日から三日間行われる北陸の祭りで、大勢の観光客で賑わうという。江戸時代から続く祭でゆったりとした踊りで、踊り手が各町内を練り歩く光景は幻想的とされている。踊り手が皆編笠で顔を隠して踊る様子が特徴で、風情が増すという。

漫画『島耕作』の専務編の中で描かれていて、書かれていたのは2007年頃。祭りの様子もさることながら、企業買収に関するテーマで、日韓関係の現在を先取りしているようでとても興味深い。

 実際の二百十日前後は、八月九月の台風の合間で、むしろ気候的には嵐は少ないという。但しこのころ稲の出穂期にあたり、強風が吹くと米の取れ高が目減りしてしまうことから、農家では稲穂の風に注意せよといった習わしが伝わったといわれている。

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彼岸とおはぎそして私

2019-03-20 22:21:01 | 風の習わし時を超え

 三途の川を挟んで今の私たちが住む世界を此岸、そして向こう側仏様の世界を彼岸という。現世の人々を苦しめる煩悩の無い悟りの世界、即ち極楽浄土のことを指す。中日を挟んで前後三日を彼岸とし、古来の風習や自然観祖先崇拝という風習が強く結びついて生まれた言葉だという。ましてや他の仏教国には彼岸という風習はないのだそうだ。

平安期に始まった彼岸会は浄土宗の影響といわれ極楽浄土は西の彼方にあると信じられていて、太陽が真東から昇り、真西に沈む春分と秋分の日には此岸と彼岸が最も通じる日と考えられてきた。一方仏教伝来以前より祖先や自然を崇拝してきた風習から、太陽信仰即ち「日願」が転じて「彼岸」と結びついた説もある。

 

彼岸のお供えといえば「おはぎ」今ではスーパーで手作りのおはぎが人気だが、本来は春は牡丹の花咲く季節であるから「牡丹餅」(ぼたもち)であり、あきは萩の季節で「お萩」といったようだ。但し武家の家では「牡丹餅」だと牡丹の花の散り様が首が落ちる様に似ていることからぼたもちをさけたという。(諸説あり)

 江戸時代に始まった牡丹餅、おはぎの風習は小豆の色に邪気を払う力があると考えられて、あくまでお供え物であったという。またお祝いで炊く赤飯は地域によっては小豆を使うと豆の腹の部分が割れて縁起が悪いので、地場でとれるササギを使うところもあるという。

明日は中日。昨日墓参りは済ませていて、自分は販売という本業に全力で当たる日だ。

 

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行田の初午と伝兵衛長屋火事

2019-03-12 00:05:51 | 風の習わし時を超え

「春が来る来る初午祭、幼馴染の掛け行灯(あんどん)」行田音頭の一節にも唄われる行田の初午祭。立春を過ぎて最初の午の日を初午と呼び、その起源は山城伏見稲荷の御例祭が和同四年二月九日であったことに由来する。但し旧暦にあたり、今年に限れば三月十日になる。

 稲荷社は全国数多く、江戸期においては「伊勢屋稲荷に犬の糞」といふほど武家屋敷から市場に至るまでそこかしこに稲荷の社があったとされる。行田町は江戸期において数多くの火災にみまわれ、屋敷はもとより古くからの神社仏閣も焼かれてしまった記録が残っている。

 

弘化三年(1846)二月の大火は午後五時蓮華寺町御家中鵜野伝兵衛屋敷から出火し、折からの強風で近世行田町最大の火事と伝わる。伝兵衛長屋火事と呼ばれ「武江年表」にも記載が残る。出火の原因は炊事中出火の半鐘がなったので表へ出たところその勝手の障子が風ではずれ、竈の上に倒れて、一度にどっと火が上がったという。強烈な西風にあおられ、北谷、御堀端、新町を焼き飛び火は埼玉村まで至って材木を焼いたという。

 弘化三年は丙午の年で、火事にあった二月二日が初午の日であったことから行田町では初午に各家々で屋敷稲荷を祀ることが盛んになったという。丙午の年には火事が多いとか、月初めに初午が当たり、二の午、三の午とあると火が出やすいといった言い習わしがあり、初午の晩には風呂を焚かないといった風習が広まったとされる。昭和期まではこうした風習がかなり残り、市内の銭湯や当時は珍しかったサウナ店も、初午には店を休んでいた。昔気質の父はこうした風習に厳しく、幼い頃まだ寒さ厳しい初午の日に風呂に入れないと、子供心に悲しい思いをした記憶が残っている。

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