今年の秋はやや暖かく、師走を迎えてなお県内各地の紅葉を愛でることができる。北埼玉から東松山を抜け入間郡まで車で2時間近く。飯能市の東郷公園にたどり着いた。当地は秩父山地にある農村部。すぐそばには高麗川が流れ、地名の坂元は正丸峠と南沢峠の麓にあたるという。
社伝によれば垂仁天皇乃御代秩父彦命を勧請し、中古伊邪那岐、伊邪那美命を合祀し聖天神社と称す。建久元年源義経の家臣岡部六弥太当地に落ち延びて居住し、社殿を補修する。永徳五年(1386)岡部六弥太の子孫新左衛門本殿を再建し岡部家の氏神とする。明治維新により社名を秩父彦神社と改称する。御祭神は国之常立尊、大己貴命、少彦名命、知知夫彦命の四柱であり、明治七年村社となる。
明治二十七年坂本生まれの御嶽教教師鴨下清八は福寿山を開き、木曽御嶽山を分霊する。その後上中沢の知久神社を合祀し秩父御嶽神社と改称している。
開祖、鴨下清八氏はその生涯をかけて当地を整備し、東郷平八郎元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国の興廃此の一戦に有」の名言になぞらえて、一戦を一銭として貯金し、元帥の銅像を建設したという。
東郷元帥は生前の銅像建立を固辞していたが、鴨下氏の誠意に打たれ、大正十四年東郷元帥の正装した姿の銅像を建立するに至っている。
公園内には日本海海戦に纏わる多くの遺構が奉納され、その歴史を伝えている。まさしく日露戦争の結果なくして今日の日本はあり得なかったのである。
神社案内に記された宮司様の言葉に胸を打たれ、時間を忘れて紅葉の赤を眺めていた。
当山開祖清貫一誠霊神は、人の一生も斯く在りなんとの願いから紅葉の木を人生の手本とするようにと、たくさん境内に植樹しました。私たちの生涯は順風満帆というわけにはいかないことが多くあります。それはこの世に生を受けて森羅万象すべてのものの中の一員として暮らしていく上では仕方のない事なのです。私たちは一人で生きているわけではありません。互いに常に影響しあって生きている以上、摩擦が生じないわけはないのです。
そんなつまらない障害を少しでも軽く、少しでも小さくと念じ御岳山の行者は祈願を重ねます。最後に自分らしく精一杯色付きを見せるモミジの様に、錦を飾って私たちもその一生を生き抜きたいものです。
神の御神徳とは人の言葉やその生き方によって伝えられるものだと実感する。「神は人の敬いに寄りて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」御成敗式目の言葉を想いながら木々の色が胸に染みわたっていた。