行田市中部東端に位置する下須戸は星川下流、見沼代用水の通る肥沃な田園地帯だ。旧国道125号沿い、その先は羽生市へとつながって行くが、市内に対になる「上須戸」の地名は見当たらない。新編武蔵風土記稿によれば、「上須戸」は幡羅郡にあり対となるという。現在の妻沼の地である。
しかし上下一対の地名にしては距離的に無理があり、「須戸」とは「州門 」であり即ち中州の先端を指すものと思われる。幸手市にも「須戸」の地名が残り、古くは利根川流域に散見した地名と考えられるが、河川の流れの変化により、地名も消滅する中で、この地の名は残たものだろう。
口碑によれば、約七百年前、鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が牛頭天王の象を奉じてこの地に住み着いたとされる。この者が旧別当真言宗天王院医王寺の開祖であるという。
医王寺の寺鎮守として牛頭天王を祀ったことが当社の創始とされる。牛頭天王とは素戔嗚尊のことで、総本社は京都祇園の八坂神社である。
本殿脇には四坪ほどの池があり、古くからの信仰の中心という。昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水をに沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わる。
以来この池の水に対する信仰が高まり等遠くはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。また日露戦争後、当社に参拝すると敵の弾に当たらないといわれ、益々崇敬も増したという。
境内地には「日露戦役凱旋記念碑」が建っている。碑文は陸軍大将山縣有朋によるもの。行田市内には日露戦役の記念碑が16基残っているが、その中の2基が山縣有朋の書によるもので、ここ八坂神社と前玉神社に残っている。
例大祭にはかつて馬に乗った神職を先頭に神輿が村中を廻ったという。神輿の出立に先立って、神職から馬まで水を被って清めたという。これは昔天王様が水行したという伝承によるもので、神輿は「女天王」と呼ばれていた。現在でもその記念碑が残っている。
古来、戦と並んで恐れられたのが疫病である。その恐怖は尋常でなかったのだろう。昔は「厄災」を世の中に怒りや恨みをもって亡くなった人の祟りと考えていた。また疫病を司る神の仕業と思っていた。牛頭天王はインドの寺の守護神で、病気を流行らせる神だとも考えられていた。そこで牛頭天王を鎮める御霊会が平安中期から広まっていったのだという。
行田市内には八坂社はここ下須戸と白川戸の二社であるが、加須、羽生には八雲神社を含め八坂神社、祇園信仰が数多くみられる。羽生の八雲神社の例大祭、天王様の祭りは今でも盛大に行われている。令和の御代に今般のウィルス蔓延の事態となり、改めて八坂祇園信仰が高まっている。
稲作を中心とした農耕信仰が神道の起源だと考えられるが、厄災、疫病除けもその派生的起源として古くから広まっていたものと考えられる。
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