日光街道の宿駅であった幸手宿は五つの町内に分かれ、当社はこの右内馬之助町の鎮守として祀られてきた。この地の開拓者である新井右馬之助は一色氏の家臣であったであったが、その後当地に土着し代々名主を務める家柄となった。
元禄十二年(1699)に幸手宿に取り込まれ街道の面して旅籠屋や問屋などが軒を連ね、宿場町として多いに発展を遂げている。
当社の崇敬の高まりには菅谷不動尊と成田不動尊の二つのお堂の建立があげられる。これらは安政二年(1855)に豪商上野谷庄兵衛が祀ったもので、二つの不動尊のうち、菅谷不動尊は「田螺不動尊」とも呼ばれている。眼病に悩む人々を救い、目を病む人々は田螺を食べることを断って不動さまに絵馬を奉納したという。医者にかかかってなおらなかったものが不動さまにお願いしたところすっかり治ってしまったという。
参道入り口に残る灯籠の台座に記号高低標が残っている。「「不」の記号が残されており、明治七年(1875)にイギリス式の測量が導入された名残だという。東京・塩釜(宮城県)間の水準測量を行った際神社の鳥居や灯籠に刻まれたもので横線(ー)は水平を、下の部分は三脚を表している。明治以降神社は合祀政策によって村社を中心に数が纏められたが、土地の場所を示す役割を果たし、こうした測量記号が残されることが多かった。
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