皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田町探検〜卒業記念編

2021-03-24 00:06:00 | 日記



彼岸を迎えた19日に6年生による市内散策が行われました。僅かひとクラス12人の小規模校でが、6年間共に過ごした仲間との最後の行事となりました。


 本来であれば最高学年として、運動会、文化祭など様々な学校行事の中でその中心的役割を果たし、たくさんの思い出となったはずでが、新型コロナの感染拡大のため、ほとんどの行事は中止となってしまいました。特に修学旅行については、見聞を広げる機会でしたが、行くことが叶いませんでした。


そこで代替え案として、担任の先生とクラスの子供たちで共に考え、実現したのが今回の市内散策です。緊急事態宣言解除を前提として、ギリギリまで日程を後ろにして、実現した企画です。
なんとか子供たちのためにこの行事を実現しようと、担任の先生が努力してくださったことがわかります。公立の小さな学校です。ことなかれ主義のもと、『今年は仕方ないよね』といった雰囲気に飲み込まれていく中で、何とかしようという気持ちが伝わってきました。それが一番嬉しかったことです。




市内の至るところで花手水が出迎えてくれます。行田八幡神社にも参拝したようです。




大長寺では、団参記念の御朱印も用意してくださいました。




いよいよ明日は卒業式です。真新しい学生服に袖を通し、小学校生活に別れを告げます。


最後のランドセル姿は恥ずかしそうに手を振ってくれたようです。6年間の成長と時の重さを改めて実感します。


さくらの花咲く素晴らしい日になることを願っています。






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忍中学の名を誇れ

2021-03-20 22:00:44 | 日記

 

歴史は古き城跡に 今新しき希望あり

共同の道に進むとき みどりひとしくくさもえて

正しき自治の花咲けば 修る業も身に近し

秩父の空の風晴れて 富士鮮やかにそびえたり

勤労の力ゆるぎなく 常に明るく健やかに

行田の若きよろこびと 忍中学の名を誇れ

 行田市立忍中学校第74回卒業証書授与式が行われました。コロナ禍にもかかわらず、感染対策を取り簡素化を進め、ハレの卒業式を開いていただいた先生方、関係者の皆様に感謝いたします。思えば自身が卒業したのは三十二年前の昭和六十三年三月。昭和最後の年であったと思います。四半世紀を超えて後、わが子が同じ中学校を晴やかに後にするとは感無量でした。昭和、平成、令和と時代が過ぎても思春期真っただ中の三年間を同じ学び舎で過ごしたことになります。

式では卒業生を代表し、別れの言葉を読ませていただきました。私自身は入学の際、新入生代表挨拶を読ませていただきました。

 式当日の朝まで挨拶を読み込み、会場へ入ったようですが、終わったのち感想を聞くと、あまり緊張しなかったといいます。むしろ校歌や合唱のピアノ伴奏の方が余程緊張するそうです。伴奏に限っては失敗が許されない。自身のピアノが止まれば皆の歌も止まってしまう。そうした重圧は弾いたものしかわからないといいます。私には到底考えも及ばない境地です。誰かのために役目を負う。そういう人生を自ら選びこれからも道を切り開いてほしいと願っています。

校舎前に建つ像の両手の間には、夢と希望が抱えられています。開校五十周年に建てられました。この下には当時の生徒が50年後の自身へ託した手紙が埋められているそうです。あと26年後には100周年。子供たちが切り開く未来はどんな世界が広がっているのでしょうか。

 PTA会報の卒業記念号です。この中から埼玉の偉人となる子がきっと出てきてくれるはずです。それまで私たち世代が彼らの後押しをできるようこれからも自分自身も努力していきたいと改めて思います。

同じ小学校から入学し共に9年間共に過ごしてきた仲間との写真です。小学校入学時と比べると本当に大人になったと思います。

自治・共同・勤勉 私が子供のころから変わらぬ校訓です。

教育目標は「自ら学び 共に鍛え 未来を拓く 人になる」

認め合い 高めあい 支えあう 学校 

学校は社会を映す鏡です。卒業式にあたり輝く子供たちの笑顔に明るい未来が映っています。

忍中学の名を誇れ。校歌の結びの言葉を胸に刻み羽ばたいてほしいと願っています。

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春 四節季 春分

2021-03-19 22:47:13 | 生活

 桜の開花が目前に迫る弥生二十日。

 太陽が真東から昇り真西に沈むことから昼と夜の長さが同じになる。

 古来日本においては極楽浄土が西にあると考えられ、太陽が真西に沈むこの日にこそ最も極楽浄土に近づける日として、仏事を行うようになった。

 春の彼岸は春分を挟んで七日間を指し、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる通り、穏やかで過ごしやすい季節。

 農家にとっては春分を境に種蒔きが始まるという。

 ところで春分の日は太陽が春分点(黄経0度)を通過する日であり、年によって異なることから毎年2月1日付けの官報に翌年の春分、秋分の日が発表される。天文学に基づく年ごとに異なる国家の祝日は世界的にも珍しいという。古来より農耕生活を基盤とした日本らしい祝日ともいえる。

 極楽浄土にいる祖先と直接対話できる日が春と秋に二回訪れる。祖先あっての私たちの今。感謝の心を忘れずにいたいと思う。

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鴻巣市笠原 久伊豆社

2021-03-13 23:20:18 | 神社と歴史

県道77号線(行田蓮田線)を上り、川里を過ぎて鴻巣東部を走ると、免許センター過ぎたころ「笠原」という交差点が見えてくる。鴻巣市内の神社は多数あるが久伊豆社は数少なく2社のみである。

流造りの拝殿屋根は多くの久伊豆神社と同様のつくりであるが、地名の笠原については古い記述が残っている。

「日本書紀 」安閑天皇元年(466年)閏12月条に笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵が武蔵の国造の地位をめぐり争ったという記事がある。笠原直使主は埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と考えられていて、当時の遺構はないものの古い開発地であったとされる。

「吾妻鏡」建久六年(1196)には源頼朝の奈良東大寺供養に従った髄兵の中に笠原六郎の名が見え、更に正治二年(1200)の条には源頼家の鶴岡八幡宮参拝に従った奉公人として笠原十郎左衛門尉親景の名が記される。何れも笠原の名を持つ武士と考えられ平安末期から中世にかけて南北埼玉郡に勢力を誇った武士団である野与党に属すると推察される。

久伊豆神社は一般に野与党や私市党(きさいちとう)の共通の祖先神と考えられていて、その分布に関しては、武蔵国においても元荒川沿線に多く分布し、氷川神社と鷲宮神社の勢力圏の間を縫うように分布するのが特徴である。

 主祭神は大国主命で中央に久伊豆社、右手に熊野神社、左に菅原神社を合わせて祀る。

 内陸部の特徴である稲作中心の農業地帯であったが、大正期まで度々干ばつに見舞われることが多かったことから、雨乞い神事が盛んにおこなわれていた。七、八月ごろ年番数名が板倉の雷電様に代参し「お水」を竹筒に入れて待ちかえったという。まず神社の本殿前に「お水」を供え、神職による祈祷の後、境内の御神木にかけて降雨を祈念する。そののちたらいに張った水を村の若い衆が通行人にまでかけて大騒ぎし、終わると「お水」を地元の田に持ち帰って笹で振りまくと二、三日のうちには雨が降ったという。

また厄除け神事として「お獅子様」があり騎西の玉敷神社から獅子を借り、家々を廻って祓うという。騎西の玉敷神社は古くは久伊豆大明神と呼び、久伊豆社の総本社と考えられている。

また氏子の間では風邪を引いた際久伊豆社に参ると治ると伝えられてきたという。

道を隔てた東側には明治期まで別当として栄えた真言宗東光寺が今も多くの檀家を抱えて建っている。

神社入り口に建つ村社社名碑は国学院大学学長を務めた、玉敷神社宮司河野省三氏の揮毫である。(昭和十一年)

 

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怠らず張り詰めず

2021-03-13 22:37:50 | 日記

 弥生も十日を過ぎると暖かさも日増しに感じられるようになるが、生憎今日は冷たい雨に見舞われた。春は別れの季節。

今日も店の中を見渡すと卒業式を終えたと思われるお客の姿も目に入る。コロナ禍のせいで晴れやかな門出の儀式も簡素化省略化され、例年と比べ賑わいも抑えて行われているようだ。今年は自分の子供たちもそれぞれ中学、小学校を卒業することとなり、式典も来週に迫っている。感染拡大防止のため中学については式の参列が叶わないが、それもまた糧として晴れの門出を陰ながら祝いたいと思っている。

   

 一方自身の仕事に関しても急な辞令で配属が変わることとなった。会社員の宿命であり環境が変わることには慣れてはいるが、やり残したことも多い。いつかやろうは馬鹿野郎との言葉通り、いつかいつかと思っているうちに自分の居場所がなくなってしまうこともある。移動先でまた一からは人間関係を築くことを厭わないようにと願っている。

古くは藤原秀郷が、平将門の乱を鎮めるにあたり、願いかなって八幡宮に思いの儘に田を寄進する。そこから飯田(ままだ)との名がついたところに身を寄せて半年。別れの時を前に気に留めている言葉は「怠らず張り詰めず」

日々の仕事の中で、大きな変化と思うものでも、振り返ればある地点での小さな起伏に過ぎないことも多い。変わるのではなく、変化し続けること。歩くのではなく歩き続けることが大切なのであって、その秘訣があるとすれば「怠らず張り詰めず」という気構えにあるような気がする。

 明日の別れを前に、普段通り一日を過ごせたらと思っている。

 

 

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