明治5年(1872年)8月 泗水義塾では、国の学制頒布(がくせいはんぷ)に合わせて江戸末期から四日市各所にあった寺子屋や私塾を統合、上新町の光運寺内に県下初の小学校を造ります。その後、南新地から明治18年7月本陣跡に新築移転、明治30年の市制施行で四日市市四日市尋常小学校になりました。後の中部西小学校である第一尋常高等小学校のことです。
さて③の問題です。よくある学校の遠景ですが・・・どこでしょうか?
二日前の「男の囲炉裏端」の新年会で 戦前にあった牡蠣船は 現在の「かき広」さんの先々代の方がやってみえたということをお聞きしました。牡蠣船とかき広さんが繋がりました。昔の船内の様子をお聞きする時が来るかもしれません。
米軍の空襲で焼け残ったのが、写真右側の校舎。
この校舎、戦後生まれの私は、小学校5年生のとき、お世話になりました。
でこの学校は戦前に第二小学校と呼ばれた、タケベーさん並びに私の母校“四日市市立浜田小学校”で〜〜すッ!
では、手前の田んぼに 昭和30年代 近代的建築物が建てられました それは何だったでしょうか?
っていうのは如何?
四日市の温泉ができたのはもっと後だったのでは?
四日市の温泉!ありました ありました!