花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

昭和30年代の夏休みのこと

2005年07月06日 | レモン色の町
訪西商店街の野村さんから、おもてなしに掲載する原稿を頼まれました。今までのブログと重複するところが多々ありますが、お時間があれば読んでみてください。
は、昭和23年に生まれました。いわゆる団塊の世代です。終戦後のバラック建ての店舗の裏に、私が生まれるということで、新しく住まいを建てなおしたそうです。場所は新田町。諏訪前通りという東海道沿いの商店街です。根っからの町っこです。
学校は浜田小学校。小さい頃の何よりの楽しみは、夏休みとお正月でした。いわゆるハレの日です。夏休みに入る終了式の日。先生から夏休みの注意などを聞いた後、1学期の間に作った工作や、朝顔と一緒に、夏休みの宿題をいただき、元気いっぱいで帰ってきました。
て、7月中に宿題を済ましてしまおう、そして、あとの一ヶ月間を十分に遊ぼうと大計画を立てて、夏休みの友に取り組みます。ところが問題があります。それは、毎日の天気と日記。これは一気に片付けるわけにいきません。
気は、夏休みの最後に誰かに聞けばいいのですが、日記は毎日書かなくてはならないのです。3日間ぐらいは、諏訪神社で行われるラジオ体操のことを書いたりして続きますが、やがて嫌になり、書くことがなくなります。5枚くらいでストップです。標本作りという難題も残っています。まだまだ夏休みは始まったばかり、日にちはあります。ということで、これを期にすべてが止まります。
月の初めに、商店街では港まつりが行われました。この日を目指して通りでは飾り物に取り掛かります。竹で編んで骨組みを作り、そこへ、ちり紙を折って開いた花を取り付けていきます。最後にスプレーで色をつけ完成です。我が家では総出で、等身大の「らくだ」を作り、バカンスはらくだに乗ってと書いた看板をかけました。生活にゆとりが見え始め、バカンスということばが歌にも出始めた頃です。たくさんのお客さんが見て行きます。鼻高々でした。
時はほとんどのお店が、住まいと一緒でしたので、晩御飯を済ませたあとのお風呂の時間まで、退屈な夜の時間はこの作業に費やされました。テレビジョンがまだ珍しかった頃です。
レビのある店へは、友達誘い合わせて出かけました。「もう遅いで、これがすんだら帰らなあかんよ」といわれるまで見続けました。その家では、夜の食事が始まっています。「今日は、えらいご馳走やなぁ」と横目で見ながら、匂いを嗅ぎながらのテレビ観賞です。
原のおじさんが、新田町の子供たちを集めて「楠の木子ども会」というのを作りました。日頃かまってもらえない、商売の店の子供たちを思ってのことだったのでしょう。ラジオ体操・廃品回収・8ミリ映画会・バス旅行などが企画されたのです。
休みに行われた日帰りのバス旅行は、何より楽しみにしていました。伊勢神宮や枚方の菊人形などへ、大人も子供も町を上げて出かけます。
発の朝は元気いっぱいなのですが、日が西に傾き帰路につく頃になると、なんとなく寂しく、悲しくなってきます。ガイドさんが「あと一箇所、寄りますからね」のことばに、最後に残された楽しみに希望をつなぐのですが、そこはトイレ休憩だけでした。またしょんぼりしてバスに乗ります。残る楽しみは、旅先で買ったお土産のみ・・・。
の寂しさは、やがて来る夏休みの終わりから来るものでした。8月31日、私は親父に自転車に乗せてもらい、石の標本を作るため、阿倉川の墓石屋へ向かいました。いろんな石があるところは、そうだ墓石屋だ!と親父は思いついたのでしょう。今考えると、えらい勘違いです。当然、収穫はゼロでした。
度はお袋が、近所の魚屋で、珍しい貝の盛り合わせを買ってきました。貝の標本作りです。見るとグロテスクな貝が山盛りです。全部なべに入れ、醤油で煮込んで食べました。「へんな味やなあ」「ちょっとも、おいしない」
残った貝殻をきれいに洗って箱に並べます。名前など調べる余裕も時間もありません。
学期が始まり、私は恐る恐る、箱からはみ出た貝の標本を提出しました。
意外にも先生から返ってきた言葉は「珍しい貝ですね」でした。決して、「どこで取ってきたの?」とは聞かれませんでした。ヨカッタ、ヨカッタ。
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4 コメント

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私は昭和22年の早生まれです (伊勢生まれの下総人)
2018-05-10 00:54:17
武兵衛さんは23年の早生まれですか。
古い記事で、武兵衛さんは大協石油の火事の時は、四日市幼稚園の園児とのことでした。
私も四日市幼稚園の卒園(担任は宮田先生)ですが、火事の時は浜田小学校の一年生でした。
武兵衛さんも浜田小学校とのこと。私の時はA~D組までの4組、翌年の新入生はF組までの6組だったように記憶しています。私は浜田を卒業していますので、武兵衛さんとは五年間同じ学窓を過ごしたことになりますね。
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30年代の夏休みの事 (タケオです)
2018-05-10 17:24:13
23年七月生まれです。大協石油の火災は、幼稚園の入り口で、東に向かって見ていました。黒い煙がはっきりと記憶にあります。伊勢湾台風は、5年生でした。下総人さんは6年生の時でしたか。
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大協の火事、月を間違えてました。 (伊勢生まれの下総人)
2018-05-19 12:49:47
大協石油の火事は昭和29年の10月だったのですね。私は2月だと勘違いして、この時、武兵衛さんが四日市幼稚園児であれば、私より一つ下かと思ったのですが、10月となれば、二つ下ということになりますね。私の家内は武兵衛さんより一つ下で四日市幼稚園を卒園していますが、園児が多くて、午前午後の2部制だったそうです。武兵衛さんの時はいかがでしたか。
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四日市幼稚園の事 (タケオです)
2018-05-21 16:53:59
とにかく生徒が多くて、けれど2部制であった記憶はありません。私たちは星組で、きれいで優しい先生でした。先生だった人が買い物にみえて、お話させていただいたんですが、いい加減な対応だったことが悔やまれます。
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