昭和11年、新港竣工と同時に千歳町で開催された「国産振興大博覧会」は、国全国的にも空前の大博覧会で、陽春の港四日市は全国各地から押し寄せた人波で連日大賑わいであった。
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その後、四日市港は塩浜地区や稲場町地先(大協町)、午起地先において用地造成が行われ、海軍燃料廠や大協石油、浦賀ドッグ(終戦で未完成)、などが立地し、工業港への性格を強めていった。
その後、大会場、迎賓館、救護所の辺りは日本板硝子に譲渡されたものと想像しています。おそらく、その時期は大会場が市役所近くに移築された昭和25年頃ではないかと。そして、移築されなかった迎賓館はそのまま工場の事務棟に、また救護所は工場の診療所になったのではと想像しています。このブログの以前の記事に載った救護所の写真の入口が、私の記憶の中の診療所の入口とそっくりなのです。
昭和25~6年頃、工場の診療所を稼働させるために、職員を募集したのではないか。そして薬剤師であった私の父は運良く日本板硝子に就職。私達家族は昭和26年に錦町(現三栄町)の社宅に入居することができました。社宅から通りに出るとすぐ目にするお馴染みの風景は移転済みの公会堂と真新しい市役所のビルでした。
コメントありがとうございます。
昔の世界が広がります
中学生になると暗くなると蔵町の家から稲場町や尾上町、諏訪の繁華街などあちこち乗り歩きましたが、本当に狭い範囲での行動でもありました。伊勢生まれの上総人さんのコメントによっても迎賓館や救護所の面白い事実を知りました。あの工場は国産振興大博覧会と大いにご縁があったのですね。引き続きブログを楽しみに読んでまいります。
そして、日本板硝子の診療所になったのでは。
あゝ、あの頃に戻ってみたい。🤔🤔🤔