四日市を二分するように流れる三滝川。明治期まではこの川を渡る橋は三滝橋と明治橋のみがたよりだった。このため浜街道つまり中町通り・浜町蔵町通り(当時の浜往還)を往来する人々は東海道の通る三滝橋から約300メートルほど川下に僅かに歩行できる幅の板を架け、橋北との交通手段にしていた。
明治44年
この板橋は俗に舟板橋と呼ばれ、水面すれすれに架けられていたので増水のたびに流されたり、子供が転落して溺死するなどの不幸が続いた。しかし、この板橋は浜街道や四日市の海寄りをたどってくる人馬にとって欠かせない三滝橋のバイパスであった。そして重要な交通路として発達するに及び、橋の不便と危険は多くの人々の注目するところとなった。この状況を目の当たりにしていた黄檗宗(禅宗系)天聖院の林道永和尚は、橋北地区の人々を説いて廻り、有志に喜捨を仰ぎ、和尚自らも私財をなげうって架橋の斡旋に努力し、明治24年遂に木橋が完成「慈善橋」と命名された。これによって橋北と橋南の交通は大変便利になり、街の繁栄に大きく寄与した。(椙山満氏)
四日市史より
現在の慈善橋100メートルほど西へ移動している
現在架かる新しい慈善橋は、西に移動して架けられている。和尚の子にあたる林先生は、社会の先生でありました。受け持ちは世界史で、フランス革命に2時間ほど割いて話していただいたことがありましたっけ。
天聖院
さて、本堂横に立つ巨木(銀杏の木)には、大きな傷が残っていますが、何があったのかな?
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