花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

四日市漫歩マップ⑭四日市幼稚園 其の2

2021年10月30日 | レモン色の町

四日市幼稚園の空襲当時の様子が、四日市市史第10号沿革誌より『罹災状況』に掲載されていた。罹災当時、敷地は高等女学校の一角にあった。名簿等の資料は疎開されていて無事であった。が・・・

 昭和20年6月18日午前0時30分頃、第2回警報発令されるや、職員はいずれも自宅を出発し、園舎に駆け付けんとしたるも、敵機の投弾以外に早かりし為、途上にて既に民家の炎上に出会い、猛烈なる火勢の為、園舎に到着したる保母わずかに2名(平尾、山下)にして、壱岐園長まずありて、重要書類等の搬出に保母を指揮せらる折から、無数の焼夷弾は園舎に落下し、たちまち各所に火の手をあげ、遂に危険身に迫りしを以って、まず保母を避難せしめ、なおも園長は防火に奮闘中、猛火は四方より迫り園長と運命を共に遂に殉職せられたり、常宿の女使丁は、ようやく身を以って危急中に非難す。

園長は殉職された。そして、戦後となり

昭和21年3月1日 諏訪公園の西新地 演武場(4室)を借り受け開園、32名の児童で再開された。※ 演武場(武徳殿)は、焼け残ったことになる。

昭和27年10月15日 2階建て保育室(1)と玄関を増築し、保育室が6室となる。

昭和29年3月 児童の急増により、5歳児からの2年保育は廃止される。

昭和30年4月10日 橋北中学校敷地内に分園が出来る(後に橋北幼稚園となり独立)。

昭和37年5月20日 元町へ移転(旧市立産院跡)し、現在に至る。

昭和30年代の四日市幼稚園付近の様子が、名古屋タイムスに掲載されている。

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2 コメント

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Unknown (伊勢生まれの下総人)
2021-10-31 17:37:24
“昭和29年3月 児童の急増により、5歳児からの2年保育は廃止される。”
私が在籍した昭和27年当時、2年保育があったとは知りませんでした。家内の話しでは、昭和30年には、園児増により午前午後の二部制になったそうです。
また、保育室などの増築が昭和27年10月に竣工とのこと、私が在籍した時期と重なりますが、工事をしていたという記憶は全くありません。幼児のこと、おそらく視野に入ってはいても、他事に気が向いていたのでしょうね。
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四日市幼稚園 (タケオです)
2021-10-31 18:10:47
私は、昭和29年の在籍でしたので、すでに2階部分は建っておりました。入口で大協石油から上がる真っ黒な煙を眺めてたことが印象的でした。
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