市民壇に貼ってある施工時のプレート板には、このように記してあった。
誓上御柱(上の字の左にカギ印がついている。いったい何と読むのか?)
市民壇
為 三恩報謝謹建之
昭和九年三月吉日
當市 村山清八
続いて施行者の名前が羅列してある
前回、市民壇はグループの出資よるものと思っていた。なぜなら巨額を要したことと、記念撮影の二枚の写真の人物が異なっているからだ。村山氏ともう一人はいったい誰だろうか?
誓の御柱前 市民壇前
昭和9年は、まさに戦争へ突入の頃だ。市民壇前では北側に五か条のご誓文を見上げながら、出征兵士の壮行会が行われたことだろう。
ここで簡単に諏訪公園の歴史を記す。
明治39年・日露戦争戦勝記念として諏訪神社裏の土地を保光苑として開放する。
明治44年の保光苑周辺
大正 5年・四日市市に寄贈され、諏訪公園と改称。
大正11年の諏訪公園周辺
昭和 4年・熊沢一衛氏が、二千冊の書籍と共に図書館を寄贈。
昭和 9年・村山清六氏が誓の御柱と市民壇を寄贈。
昭和15年の諏訪公園周辺
昭和48年・図書館としての機能終える。
平成15年・こども交流館として再開。
上に似た文字は「之」の篆刻文字で「㞢」です