明治11年6月 大阪高等裁判所で三右衛門は敗訴に終わったが、その後、県による工事の進捗はなかった。理由は、財政上施行困難という事だった。三右衛門は、内務省に訴え出る。こうして内務省による実地検分が行われ調整案が出された。
明治21年竣工の開栄橋 橋の左側の洋館は四日市郵便局(明治21年竣工)、その向かいが四日市倉庫㈱本社、その奥の洋館は四日市銀行である。稲葉邸はその向かいあたりか?(明治時代)四日市博物館刊“写された四日市”より
・工事は、県が指導監督して稲葉三右衛門が施行する
・埋立地の地券は速やかに公布し(埋め立てで出来た土地は売却するなりして換金する?)、県は、徴収保管は止める事(工事完成まで待つことなく、都度 運転資金に回す?)。
・今までの工事の費用は両者(県と稲葉)の負担として、現状のまま稲葉が工事を引き継ぐ。
・波止場完成の折には、港を公共のものとする。
・工事は3年以内で完成させ、見積金額以内で納める事。
であり、双方相当の難色があったが、結局 内務省の結論に従うことになった。こうして明治7年末より県との間で争ってきた懸案も一応の決着がつき、三右衛門の手で工事は再開されることになった。しかし問題の地券はなかなか交付されない。やむを得ず、三菱汽船の近藤廉平を訪ね、稲場町にある2千坪の土地を将来支店にすることを条件に2万円、それと高須にある実家の実兄 吉田耕平から1万円を借り受けて願書をつくり県へ提出した。
明治19年に置かれた四日市灯台の外観を詳しく知ることができる。また、堤防が高く築かれていたこともよく分かる写真である(大正時代)四日市博物館刊“写された四日市”より
明治13年3月13日、ようやく工事の免許が下り着工の運びとなった。しかし、完成された堤防は昭和17年竣工時点ではここまで高く築かれてはいなかった。 稲葉翁伝 最終回へ・・・
郷土秘話 港の出来るまで より
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