みみ しふ と ぬかづく ひと も みわやま の この あきかぜ を きか ざらめ や も
(耳しふと額づく人も三輪山のこの秋風を聞かざらめやも)
【語意】
三輪の金屋・・・・奈良・桜井市金屋、三輪山の南麓。
石仏・・・・八一は「薬師の一面が移されて2面になりしものか。」と書いている。現在では右が釈迦如来、左が弥勒菩薩と言われている。重要文化財。
村媼・・・・村の老女、いなかの老女。
みみしふ・・・・耳の聞こえない。“しふ”とは感覚器官が働きを失うこと。
ぬかづく・・・・額突く。ひたいを地につけて拝むこと。
みわやま・・・・奈良県桜井市の南東部にそびえる、なだらかな円錐形の美しい姿をした標高467mの山で、古代から神の鎮座する山、神名備(かむなび)とされて信仰の対象となっている。
きかざらめやも・・・・聞かないことなどない。「やも」は反語の意を表す。
【歌意】
耳を病んで苦しんでいる里の老女が、頭を地につけてこのみ仏に祈っている。三輪山から吹き降ろす秋風の音をこの老女は聞かないのだろうか、いやきっと聞いているに違いない。
【解説】
八一が訪れた時、石仏は路傍の木立にただ立てかけられていただけ、吹き降ろす秋風のもと、耳を病む老女の祈る姿という素朴で寂しい情景だけがあった。だが、「聞かざらめやも」に込められた反語の中に、強い希望と「三輪山=神の力」を感じ取ることが出来るような気がする。
現在の石仏は写真のような頑丈なコンクリートの堂の中にあって、この歌の当時の趣を味わうことは出来ない。周辺は山の辺の道(遊歩道)として整備され、訪れる人も多い。
【補注】三輪の金屋( 『自註鹿鳴集』による)
三輪山の南なる弥勒谷(みろくだに)といふところに、高さ六七尺、幅三尺ばかりの板状の石に仏像を刻したるもの二枚あり。(中略)路傍の木立に立てかけ、その前に燭台、花瓶、供物、および耳を疾(や)める里人の納めものと見ゆる形ばかりなる錐など置きてありき。(後略)
□「会津八一の歌」(「会津八一の歌と解説」)
*
・猿沢池にて
わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり いけ を めぐりぬ かさ さし ながら
・中宮寺
みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の あさ の ひかり の ともしきろ かも
・唐招提寺にて
おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
・春日野にて
かすがの に おしてる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも
そらみつ やまと の かた に かりね して ひたすら こふ は とほき よ の ひと
・その他
ふるてら の はしら に のこる たびびと の な を よみ ゆけど しる ひと も なし
うちふして もの もふ くさ の まくらべ を あした の しか の むれ わたり つつ
そらみつ やまと の かた に かりね して ひたすら こふ は とほき よ の ひと
ふるてら の はしら に のこる たびびと の な を よみ ゆけど しる ひと も なし
□会津八一『自註鹿鳴集』(新潮文庫、1969/岩波文庫、1998)
*
会津八一(あいづ やいち)
1881.8.1~1956.11.21、新潟市生まれ。歌人、書家、美術史家。
東京専門学校高等予科(早稲田大学の前身)で学び、坪内逍遥、ラフカディオ・ハーンの講義を受ける。卒業後郷里に帰って教鞭をとっていたが、坪内逍遥の招きで、早稲田中学の英語教師となり、後に早稲田大学文学部講師、教授となる。
明治41年はじめて奈良旅行したことで仏教美術に関心を持ち、その後も研究のためしばしば奈良を訪れた。はじめ俳句を作っていたが、奈良旅行をしたあたりから歌を多く詠み、大正13年第一歌集『南京新唱』を出版する。なお書は独特の風格を持ち一家をなしている。
掲載作は昭和28年、新潮社より刊行された最後の著作『自註鹿鳴集』に収載されたもの(『會津八一全集 第5巻』(中央公論社、昭和57年)。
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
「【詩歌】比叡山(抄) ~自註鹿鳴集~」
(耳しふと額づく人も三輪山のこの秋風を聞かざらめやも)
【語意】
三輪の金屋・・・・奈良・桜井市金屋、三輪山の南麓。
石仏・・・・八一は「薬師の一面が移されて2面になりしものか。」と書いている。現在では右が釈迦如来、左が弥勒菩薩と言われている。重要文化財。
村媼・・・・村の老女、いなかの老女。
みみしふ・・・・耳の聞こえない。“しふ”とは感覚器官が働きを失うこと。
ぬかづく・・・・額突く。ひたいを地につけて拝むこと。
みわやま・・・・奈良県桜井市の南東部にそびえる、なだらかな円錐形の美しい姿をした標高467mの山で、古代から神の鎮座する山、神名備(かむなび)とされて信仰の対象となっている。
きかざらめやも・・・・聞かないことなどない。「やも」は反語の意を表す。
【歌意】
耳を病んで苦しんでいる里の老女が、頭を地につけてこのみ仏に祈っている。三輪山から吹き降ろす秋風の音をこの老女は聞かないのだろうか、いやきっと聞いているに違いない。
【解説】
八一が訪れた時、石仏は路傍の木立にただ立てかけられていただけ、吹き降ろす秋風のもと、耳を病む老女の祈る姿という素朴で寂しい情景だけがあった。だが、「聞かざらめやも」に込められた反語の中に、強い希望と「三輪山=神の力」を感じ取ることが出来るような気がする。
現在の石仏は写真のような頑丈なコンクリートの堂の中にあって、この歌の当時の趣を味わうことは出来ない。周辺は山の辺の道(遊歩道)として整備され、訪れる人も多い。
【補注】三輪の金屋( 『自註鹿鳴集』による)
三輪山の南なる弥勒谷(みろくだに)といふところに、高さ六七尺、幅三尺ばかりの板状の石に仏像を刻したるもの二枚あり。(中略)路傍の木立に立てかけ、その前に燭台、花瓶、供物、および耳を疾(や)める里人の納めものと見ゆる形ばかりなる錐など置きてありき。(後略)
□「会津八一の歌」(「会津八一の歌と解説」)
*
・猿沢池にて
わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり いけ を めぐりぬ かさ さし ながら
・中宮寺
みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の あさ の ひかり の ともしきろ かも
・唐招提寺にて
おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
・春日野にて
かすがの に おしてる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも
そらみつ やまと の かた に かりね して ひたすら こふ は とほき よ の ひと
・その他
ふるてら の はしら に のこる たびびと の な を よみ ゆけど しる ひと も なし
うちふして もの もふ くさ の まくらべ を あした の しか の むれ わたり つつ
そらみつ やまと の かた に かりね して ひたすら こふ は とほき よ の ひと
ふるてら の はしら に のこる たびびと の な を よみ ゆけど しる ひと も なし
□会津八一『自註鹿鳴集』(新潮文庫、1969/岩波文庫、1998)
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会津八一(あいづ やいち)
1881.8.1~1956.11.21、新潟市生まれ。歌人、書家、美術史家。
東京専門学校高等予科(早稲田大学の前身)で学び、坪内逍遥、ラフカディオ・ハーンの講義を受ける。卒業後郷里に帰って教鞭をとっていたが、坪内逍遥の招きで、早稲田中学の英語教師となり、後に早稲田大学文学部講師、教授となる。
明治41年はじめて奈良旅行したことで仏教美術に関心を持ち、その後も研究のためしばしば奈良を訪れた。はじめ俳句を作っていたが、奈良旅行をしたあたりから歌を多く詠み、大正13年第一歌集『南京新唱』を出版する。なお書は独特の風格を持ち一家をなしている。
掲載作は昭和28年、新潮社より刊行された最後の著作『自註鹿鳴集』に収載されたもの(『會津八一全集 第5巻』(中央公論社、昭和57年)。
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【参考】
「【詩歌】比叡山(抄) ~自註鹿鳴集~」