<全文340字から成る「帰去来の辞」は、次のように歌い出される。
歸 去 來 兮 歸去來兮(かえんなんいざ)
田園將蕪胡不歸 田園は将(まさ)に蕪(あ)れんとするに胡(な)んぞ帰らざる
最初の行は、カヘンナンイサと読むのが、日本での古くからの読みくせである。
この読みくせは、なかなか正しいであろう。何となれば、〈帰〉去来兮という四つの漢字の、意味の中心は〈帰〉の字にのみある。二字目の去は、帰の字の下にそえられた軽い助字、そえことばであり、三字目の来の字は、一そう軽くそわった助字である。最後の兮(けい)の字に至っては、純粋に音声を充足するだけの助字であって、全く意味をもたない。帰去来兮は、現代の中国語でいうならば、回去了罷(ホイチュラバ)というのと、相当る。回去了罷(ホイチュラバ)の重点がただ回(ホイ)の字にのみあるように、帰去来兮という四字に於ける意味の重点、したがって心理の中心は、ただ帰の字にのみある。去来兮(きょらいけい)というあとの三字は、帰りゆかんとする意志が、感情によってせき立てられる心理の波だちを表現するにすぎない。〈かえんなんいざ〉、という読みくせは、その意味で大へん正しいであろう。>
【注】〈〉内は、原文では傍点。
□吉川幸次郞『陶淵明伝』(新潮叢書、1956/新潮文庫、1960/中公文庫、1989/ちくま学芸文庫、2008)の陶淵明伝「十」の一部を引用
歸 去 來 兮 歸去來兮(かえんなんいざ)
田園將蕪胡不歸 田園は将(まさ)に蕪(あ)れんとするに胡(な)んぞ帰らざる
最初の行は、カヘンナンイサと読むのが、日本での古くからの読みくせである。
この読みくせは、なかなか正しいであろう。何となれば、〈帰〉去来兮という四つの漢字の、意味の中心は〈帰〉の字にのみある。二字目の去は、帰の字の下にそえられた軽い助字、そえことばであり、三字目の来の字は、一そう軽くそわった助字である。最後の兮(けい)の字に至っては、純粋に音声を充足するだけの助字であって、全く意味をもたない。帰去来兮は、現代の中国語でいうならば、回去了罷(ホイチュラバ)というのと、相当る。回去了罷(ホイチュラバ)の重点がただ回(ホイ)の字にのみあるように、帰去来兮という四字に於ける意味の重点、したがって心理の中心は、ただ帰の字にのみある。去来兮(きょらいけい)というあとの三字は、帰りゆかんとする意志が、感情によってせき立てられる心理の波だちを表現するにすぎない。〈かえんなんいざ〉、という読みくせは、その意味で大へん正しいであろう。>
【注】〈〉内は、原文では傍点。
□吉川幸次郞『陶淵明伝』(新潮叢書、1956/新潮文庫、1960/中公文庫、1989/ちくま学芸文庫、2008)の陶淵明伝「十」の一部を引用