語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【俳句】恩田侑布子「(俳句時評)桃源へのほそ路」 

2018年01月29日 | 詩歌
 古典を読むのは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものだとボルヘスはいった。
 芳賀徹は『文明としての徳川日本』で、江戸時代を封建社会という「夜明け前史観」から解放する。徳川の平和(パクス・トクガワーナ)という文化の肥沃(ひよく)時代として捉え直すのである。その文化の円熟期の民衆による民衆詩を代表するのが蕪村である。子規の説く積極的・客観的美の蕪村像より、萩原朔太郎の「郷愁の詩人」に近く、四海浪(なみ)静かな「安らぎの詩人」があらわれる。わびさびの求道者芭蕉とは違う、ゆるやかに艶なる詩を練り絹のような筆がよみとく。
 《うづみ火や我かくれ家(が)も雪の中》
 《うづみ火や終(つひ)には煮(にゆ)る鍋のもの》
 低生産、低成長、知足安分の弱火(とろび)のような平和な社会に、蕪村のけだるさや倦怠(けんたい)の消極的な美は釣り合う。かくれ家は小さく狭くほの暗いほど安らかである。
 《桃源の路次(ろし)の細さよ冬ごもり》
 桃源の路次は細いだけでなく、最後には緩やかに下って行かねばならぬものという。そういえば、川端康成の『雪国』もトンネルという「路次の細さ」の奥にあった。芭蕉の『おくのほそ道』もまた。
 では、スマホのフラットな小窓に消光する現代人の桃源の路次はどこに。この時、情報・モノ・カネが目まぐるしく狂騒するグローバルな現代が田沼時代の蕪村から逆照射される。徳川文化は十九世紀西洋にジャポニスムという豊饒(ほうじょう)な芸術の泉をもたらした。分断と非寛容の今世紀に「俳諧的平等主義」がジャポニスム第二波を巻き起こせたらいい。

□恩田侑布子「(俳句時評)桃源へのほそ路」(朝日新聞 2017年1月29日)を引用
(俳句時評)桃源へのほそ路
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