(承前)
(4)サクラメントとは何か
現代における神学の流れに大きな影響を与えたのは、「現代神学の父」カール・バルトのサクラメント論だ。
カトリックには、7つの秘跡・・・・サクラメントがある。神の恩恵を信徒に授ける儀式で、救済を保証するためにキリスト教徒が行う大切な儀式だ。
①洗礼
②堅信・・・・洗礼を受けた後に聖霊の力の恵みを授かる。
③聖餐・・・・ブドウ酒を飲み、パンを食べる。
④告解・・・・罪を告白して赦しを得る。
⑤病者の塗油・・・・病人をいたわり油を塗る。
⑥叙任・・・・聖職者を任命する。
⑦結婚
プロテスタントでは、このうち①と③だけがサクラメントだ。この二つだけが救済に直結していて、それ以外の5つは重視しないという立場をとっている。
ところで、バルトは①はサクラメントではない、と否定してしまう。③の、キリストの血肉であるパンを食べ、ブドウ酒を飲んだものだけが救われると。
バルトは晩年にそれまでの考え方を変え、①洗礼という制度と結びついた形でのキリスト教を否定すると主張している。①も人間が行う業だというわけだ。
③については、福音書にイエスがパンとブドウ酒を弟子たちに与えたと書いてある。①については、イエスが洗礼を受けた記述はあるが、イエスが授けたという記述はない。
バルトは①洗礼という行為自体は否定していない。カトリックの7つのサクラメントのうち⑦と比較するとわかりやすいかもしれない。⑦をサクラメントとするカトリックは、原則として離婚を禁止している。
他方、プロテスタントは⑦にサクラメントとしての地位を与えていない。離婚は奨励していないが、禁止もしていない。それはプロテスタンティズムが⑦結婚を人間的な事柄と捉えているからだ。
バルトはプロテスタント神学の立場から、⑦が人間的な事柄であると徹底的に掘り下げた。同様に①洗礼も人間が行うことだから、とサクラメント性を否定した。裏を返せば、①を受けなくても人は救われるとバルトは解釈した。
逆にいえば、カトリックでもプロテスタントでも③聖餐を受けないと人は救われない。
バルトは、サクラメントをイエス・キリストのシンボルだとした。そのシンボルは唯一③だけだ、と考えた。
新約聖書によれば、イエスはパンとブドウ酒をとって「私を思い出せ」と弟子たち語った。イエスの言葉が③にサクラメント性を与えているわけだ。
イエス・キリストがいない現状で、彼の存在を何によって想起するのか。③はイエス・キリストを思い描く役割を担っている。キリスト教徒にとって、③が行われる場に特別な力が働くと考える。それが聖霊の力だ。
キリスト教には、神とイエス・キリストと聖霊がいる。この三位一体論はキリスト教徒にとって当たり前のことだが、そこが日本人にはわからない。だから、なぜパンとブドウ酒を授かる③が特別な意味を持つのかもわからない。
キリスト教徒にとって聖霊の働きは呼吸するのと同じくらい自明だが、キリスト教徒以外の人にとってわからない。
多くの人は次のような疑問を持つだろう。パウロの手紙を書いたパウロは人間だ。なぜ人間の手紙を通してキリストの言葉を述べる福音書を解釈できるのか、と。
キリスト教徒はたぶん「パウロに聖霊が働いていたから」と答えるだろう。マリアは処女のままイエスを懐妊したとされる。ここにも聖霊が働いているわけだ。しかし、聖霊が働いていたことは、どのように弁証されるのか、キリスト教徒以外の人を納得させるのは難しいことは確かだ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
●第3章 キリスト教の限界
「【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~」
「【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~」
「【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~」
「【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~」
「【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~」
「【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~」
「【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~」
「【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~」
「【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~」
●第4章 一神教と資本主義
「【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~」
「【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~」
「【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~」
「【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~」
「【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~」
「【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~」
「【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~」
「【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~」
「【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~」
「【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~」
(4)サクラメントとは何か
現代における神学の流れに大きな影響を与えたのは、「現代神学の父」カール・バルトのサクラメント論だ。
カトリックには、7つの秘跡・・・・サクラメントがある。神の恩恵を信徒に授ける儀式で、救済を保証するためにキリスト教徒が行う大切な儀式だ。
①洗礼
②堅信・・・・洗礼を受けた後に聖霊の力の恵みを授かる。
③聖餐・・・・ブドウ酒を飲み、パンを食べる。
④告解・・・・罪を告白して赦しを得る。
⑤病者の塗油・・・・病人をいたわり油を塗る。
⑥叙任・・・・聖職者を任命する。
⑦結婚
プロテスタントでは、このうち①と③だけがサクラメントだ。この二つだけが救済に直結していて、それ以外の5つは重視しないという立場をとっている。
ところで、バルトは①はサクラメントではない、と否定してしまう。③の、キリストの血肉であるパンを食べ、ブドウ酒を飲んだものだけが救われると。
バルトは晩年にそれまでの考え方を変え、①洗礼という制度と結びついた形でのキリスト教を否定すると主張している。①も人間が行う業だというわけだ。
③については、福音書にイエスがパンとブドウ酒を弟子たちに与えたと書いてある。①については、イエスが洗礼を受けた記述はあるが、イエスが授けたという記述はない。
バルトは①洗礼という行為自体は否定していない。カトリックの7つのサクラメントのうち⑦と比較するとわかりやすいかもしれない。⑦をサクラメントとするカトリックは、原則として離婚を禁止している。
他方、プロテスタントは⑦にサクラメントとしての地位を与えていない。離婚は奨励していないが、禁止もしていない。それはプロテスタンティズムが⑦結婚を人間的な事柄と捉えているからだ。
バルトはプロテスタント神学の立場から、⑦が人間的な事柄であると徹底的に掘り下げた。同様に①洗礼も人間が行うことだから、とサクラメント性を否定した。裏を返せば、①を受けなくても人は救われるとバルトは解釈した。
逆にいえば、カトリックでもプロテスタントでも③聖餐を受けないと人は救われない。
バルトは、サクラメントをイエス・キリストのシンボルだとした。そのシンボルは唯一③だけだ、と考えた。
新約聖書によれば、イエスはパンとブドウ酒をとって「私を思い出せ」と弟子たち語った。イエスの言葉が③にサクラメント性を与えているわけだ。
イエス・キリストがいない現状で、彼の存在を何によって想起するのか。③はイエス・キリストを思い描く役割を担っている。キリスト教徒にとって、③が行われる場に特別な力が働くと考える。それが聖霊の力だ。
キリスト教には、神とイエス・キリストと聖霊がいる。この三位一体論はキリスト教徒にとって当たり前のことだが、そこが日本人にはわからない。だから、なぜパンとブドウ酒を授かる③が特別な意味を持つのかもわからない。
キリスト教徒にとって聖霊の働きは呼吸するのと同じくらい自明だが、キリスト教徒以外の人にとってわからない。
多くの人は次のような疑問を持つだろう。パウロの手紙を書いたパウロは人間だ。なぜ人間の手紙を通してキリストの言葉を述べる福音書を解釈できるのか、と。
キリスト教徒はたぶん「パウロに聖霊が働いていたから」と答えるだろう。マリアは処女のままイエスを懐妊したとされる。ここにも聖霊が働いているわけだ。しかし、聖霊が働いていたことは、どのように弁証されるのか、キリスト教徒以外の人を納得させるのは難しいことは確かだ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
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【参考】
●第3章 キリスト教の限界
「【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~」
「【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~」
「【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~」
「【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~」
「【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~」
「【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~」
「【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~」
「【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~」
「【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~」
「【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~」
●第4章 一神教と資本主義
「【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~」
「【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~」
「【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~」
「【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~」
「【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~」
「【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~」
「【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~」
「【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~」
「【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~」
「【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~」