内田百(百鬼園)が日本芸術院会員に内定したとき、固辞した。その理由をこう述べた。
「なぜといえばいやだから。なぜいやか、といえば気が進まないから。 なぜ気が進まないかといえばいやだから」
十代のときにこの話を聞いて偏屈な爺さんだ、と断定した。
秋霜をいただく今、はっきりと分かる。自分の選択を余人に説明する必要は、まったくないのだ。
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内田百の偏屈ぶりをひとつ。
狂歌の大家、大田南畝(号:蜀山人)にこんな狂歌がある。
世の中に人の来るこそうるさけれ
とはいふもののお前ではなし
内田百、これをもじって、玄関に掲げたという。
世の中に人の来るこそうれしけれ
とはいふもののお前ではなし
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●内田百年譜
1889年(明治22年)5月29日
岡山市古京町の裕福な造り酒屋「志保屋」の一人息子として生まれた。本名は内田栄造。
1905年(16歳)
父・内田久吉が死去し、実家の志保屋が倒産して困窮することになった。祖母、母と3人で暮らした。第6高等学校に入学し、俳句に熱を上げる。俳号は「百間のちに百」。当時、俳号に数字を入れることが流行っていたらしい。岡山市の北には百間川が流れている。第6高等学校を卒業後は、東京帝国大学文化大学独文科に入学し、東京に転居した。
1911年(22歳)
療養中の夏目漱石を見舞い門弟となった。
1912年(23歳)
中学時代の親友堀野寛の妹、堀野清子と結婚。
1914年(25歳)
東京帝国大学独文科卒業。漱石の所で、後輩の芥川龍之介と親交を深めた。
1916年(27歳)
陸軍士官学校・ドイツ語教授になった。
1918年(29歳)
海軍機関学校・ドイツ語学兼務教授となった。(芥川龍之介の推薦による)
1920年(31歳)
法政大学教授となった。祖母・竹が死去。
1922年(33歳)
処女作品集『冥土』刊行。1923年(34歳) 陸軍砲工学校教授となった。関東大震災にあう。
1925年(36歳)
陸軍士官学校・ド゜イツ語教授を止めた。家族と別居。
1929年(40歳)
東京市牛込区に転居し、佐藤こひと同居。
1933年(44歳)
『百鬼園随筆』を刊行。ベストセラーとなった。
1936年(47歳)
長男・久吉(24歳)死去。
1939年(50歳)
日本郵船の嘱託となった(6年間務めた)。
1945年(56歳)
東京大空襲で麹町の居宅を焼失した。
1948年(59歳)
千代田区六番町へ「三畳御殿」ができた。
1950年(61歳)
大阪へ一泊二日の旅をし、小説『特別阿房列車』を執筆。
1957年(68歳)
「ノラや」などの随筆を書いた。
1959年(70歳)
小説新潮に「百鬼園随筆」連載開始し、死の前年まで書いた。
1964年(75歳)
妻・清子が72歳で死去し、佐藤こひを入籍。1967年(78歳) 芸術院会員に推薦されたが断った。辞退の弁が「イヤダカラ、イヤダ」。
1970年(81歳)
百鬼園随筆の「猫が口を利いた」が絶筆。
1971年4月20日(81歳)
東京の自宅で老衰により死去。満81歳でした。
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