語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】丸谷才一の、女人救済といふ日本文学の伝統

2010年12月15日 | ●大岡昇平
 丸谷才一は、『星のあひびき』所収の「わたしと小説」で次のようにいう。
 「近代日本文学は、小説中心であるとよく言われる。代表的な文学者を三人あげるなら、夏目漱石、谷崎潤一郎および大岡昇平だ」

 同じく『星のあひびき』所収の「女人救済といふ日本文学の伝統」で、「戦後日本最高の作家は、やはり大岡昇平なのではないか」と書き出す。以下、その要旨。初出は、2009年3月8日付け毎日新聞である。

   *

 「群像」誌は、二度にわたって戦後の秀作についてアンケートをとった。どちらも一位は『野火』だった。
 丸谷才一/三浦雅士/鹿島茂『文学全集を立ちあげる』の巻立てでは、漱石3巻、谷崎3巻、鴎外3巻、大岡2巻となった。戦後作家で2巻は、大岡だけだ。「この作家の高い評価はほぼ確立したやうに見受けられる」

 このたび、何回目かに読み返し、またしてもその偉容に打たれた。
 (1)かつてクリスチャンであった結核病みの若い知識人である敗残兵、という設定が必要にして十分である。余分な線が邪魔をしていないし、要るものだけはしっかり揃っている。これが長めの中編小説ないし短めの長編小説に幸いした。
 (2)敗兵による人肉食いという題材が強烈である。それは、信仰の薄い日本の知識人にふたたび神を意識させる力をよく備えている。巧みな話術によって筋が展開される。なかんずく緩急自在な時間の処理がすばらしい。
 (3)文体がこの主題に適切である。しかも美しい。明治訳聖書の系統を引く欧文脈の文章は、主人公の人となりにもキリスト教的な雰囲気にもふさわしい。この文体美は、わが文芸批評がなおざりにしがちな要素なので、強調しておきたい。

 末尾、キリスト教的信仰への復帰が狂人によってなされる。このせいで、意味が曖昧になる。難があるとすれば、この点だ。
 しかし、これもわが近代の知識人の精神風俗を写すのに向いていた、と見ることができるだろう。
 
 とにかく、丸谷は今回もまた深い感銘を受けた。
 第一次大戦は、ハシェク『勇敢なる兵士シュベイク』のほかさしたる戦争小説を生まなかった。他方、第二次大戦はノーマン・メイラー『裸者と死者』、J・G・バラード『太陽の帝国』、そして『野火』を生んだのである。

 大岡の長編小説からもう一つ選ぶとすれば、『花影』だ。丸谷のいわゆる新花柳小説に属する。
 哀れ深い名編だが、発表当時の反響には納得できないものがかなりあった。女主人公の描き方が冷酷だ、作者が自分を甘やかしている、誰それに迷惑をかける、云々。『花影』をモデル小説と見なし、そんなことをしきりに言ったのである。文学の専門家およびその周辺にいる人々のかかる反応は、素人っぽくて滑稽だった。
 『花影』は、女の流転の姿を描いた名編である。女主人公への愛情にみちている。読んでいて、まことに切ないが、読後に一種のカタルシスが訪れる。これは多分、日本伝来の女人往生の物語なのだろう。
 『野火』におけるキリスト教への関心といい、『花影』の女人救済といい、大岡には意外に宗教的なものへの思慕があるのかもしれない。

 大岡が短編小説の名手であったことを言い落としてはならない。大正文学と鴎外訳『諸国物語』で育った人だから、この領域に通じている。音楽に親しむことで、形式美の感覚がさらに磨かれた。
 まず指を屈するのは、「黒髪」だ。これも流転の女の半生を叙したものだ。配するに京都の地誌をもってし、水のイメージをあしらって様式美に富む。艶麗にして哀愁にみちている。
 「逆杉」も忘れがたい。尾崎紅葉『金色夜叉』の跡を追って塩原に旅した小説家が、密通者と覚しき男女を見かける話だ。文学論、小説論をまじえながらの叙事は楽しく、紅葉の文語体と張り合う大岡の口語体はしなやかで強い。清新にして見事である。文体の見本帖でもある異色作だ。
 もうひとつ、『ハムレット日記』。批評家的才能と作家的才能の組合せとしても、政治への関心の表現としてもおもしろい。志賀直哉、小林秀雄、太宰治など、『ハムレット』に材をとった文学者は多いが、彼らのなかでもっとも知的なのは大岡である。オフィーリアに対する哀憐の思いのもっとも深いのも彼であった。

【参考】丸谷才一「女人救済といふ日本文学の伝統 -大岡昇平『野火』『『花影』』『ハムレット日記』『黒髪』『逆杉』-」(『星のあひびき』、集英社、2010、所収)
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