森 ぼくはいつもはあまり写生を言わないんだけども、子規記念館の全国俳句大会で寄せられた句が1,400いくらなんだ。子規が月並と言った類の句が多くて、写生がほとんどないということにかえって驚いた。だからもう一回、根幹に写生をしっかり押さえたほうがいいという考えも同時にある。虚子は子規を受け継いでさらに「<客観>写生」(引用者注:, < >内は傍点)と言ったけど、子規の写生と虚子の写生はずいぶん違うと思うんだ。たとえば子規の写生で言うと、「苗代や水を離るる針の尖」みたいな、非常に微細なものも捉えて、明確な写生を子規は案外心がけているところがある。
虚子になると、また一種の焦点深度が深くなってね。たとえば「白牡丹といふといへども紅ほのか」にしたって、あんなものはなかなかないんだな、実際には。「紅ほのか」が見えてるのは、やっぱり虚子の心の眼で見えてるかもわからんしね。また「去年今年貫く棒の如きもの」も、単なる写生ではなく、もっと大きく何かで捉えている。しかもそれも写生なんだな、虚子はのうのうと。
ところが、その虚子の大きな写生観というものは、末流になると、ただものを描くだけに変わっていく。そしてそれが一種の信仰になってる面もあるんだけどもね。
さっき飯田君が言った、現在の若い作家、あるいは中堅の作家を見ておると、非常に文学的な洒落た意識で、器用に俳句のいいところで詠んでいるけども、何かぼくには俳句の常識だと思えてね。むしろものの存在をしっかり捉えた写生のほうがもっと新鮮だというところが、逆にあるな。
金子 まあ一つの言い方として、そうなんだろうな。
飯田 写生には、いろいろ解釈も様態もあるけれども、一番の基本は何かというと、写生というのは、表現のよろこびを持ったもの。それは自分が納得する表現のよろこびなんだ。人を感心させようと思った表現のよころびじゃない。
金子 それはダメ。
飯田 いつも相手をよころばせよう、読者をあっと言わせようというのじゃダメでね。たとえば素十の作品は、自分が表現できたというよろこびをたっぷり湛えている。まず自分が楽しむような、よろこびを持つような姿勢を持たないとね。
森 子規記念館でも話したんだけど、写生でも、私はこれを見つけたという。それを見つけるまではその人の手柄だけども、その手柄を表現にしちゃいけない。手柄は捨てなきゃダメだ。いま龍太氏が言ったことと同じことなんだけども。
飯田 いい写生の俳句は、人が褒めようがくさそうが、関係ないんだ。ぼくは、それを一番貫いておったのは素十だと思う。素十は、人が褒めようとくさそうとかまわない。それはどこから学んだかというと、高浜虚子から。虚子は、これが自分の句の一番いいのですよなんて、生涯一度も言ったことない。全部たいした句じゃないけど、なかにはいい句もありますよ、ぐらいのことしか言わないんだ。
森 虚子でいえば、赤星水竹居の『虚子俳話録』の中に、素十が、「又一つせんべいの蝿五家宝へ」という句を句会に出したら、虚子が取らなかった。で、素十が、「品が悪いところがいけないんですか」と訊ねたら、「品もよくないがそれよりも正しい興味ではないように思われてとらなかった」と虚子は答えた。実に確かな虚子の言葉だね。
飯田 それは見事な指摘だね。
【参考】飯田龍太/金子兜太/森澄雄「表現のよろこび」(飯田龍太/金子兜太/森澄雄/尾形仂『俳句の現在』、富士見書房、1989、所収)
↓クリック、プリーズ。↓
虚子になると、また一種の焦点深度が深くなってね。たとえば「白牡丹といふといへども紅ほのか」にしたって、あんなものはなかなかないんだな、実際には。「紅ほのか」が見えてるのは、やっぱり虚子の心の眼で見えてるかもわからんしね。また「去年今年貫く棒の如きもの」も、単なる写生ではなく、もっと大きく何かで捉えている。しかもそれも写生なんだな、虚子はのうのうと。
ところが、その虚子の大きな写生観というものは、末流になると、ただものを描くだけに変わっていく。そしてそれが一種の信仰になってる面もあるんだけどもね。
さっき飯田君が言った、現在の若い作家、あるいは中堅の作家を見ておると、非常に文学的な洒落た意識で、器用に俳句のいいところで詠んでいるけども、何かぼくには俳句の常識だと思えてね。むしろものの存在をしっかり捉えた写生のほうがもっと新鮮だというところが、逆にあるな。
金子 まあ一つの言い方として、そうなんだろうな。
飯田 写生には、いろいろ解釈も様態もあるけれども、一番の基本は何かというと、写生というのは、表現のよろこびを持ったもの。それは自分が納得する表現のよろこびなんだ。人を感心させようと思った表現のよころびじゃない。
金子 それはダメ。
飯田 いつも相手をよころばせよう、読者をあっと言わせようというのじゃダメでね。たとえば素十の作品は、自分が表現できたというよろこびをたっぷり湛えている。まず自分が楽しむような、よろこびを持つような姿勢を持たないとね。
森 子規記念館でも話したんだけど、写生でも、私はこれを見つけたという。それを見つけるまではその人の手柄だけども、その手柄を表現にしちゃいけない。手柄は捨てなきゃダメだ。いま龍太氏が言ったことと同じことなんだけども。
飯田 いい写生の俳句は、人が褒めようがくさそうが、関係ないんだ。ぼくは、それを一番貫いておったのは素十だと思う。素十は、人が褒めようとくさそうとかまわない。それはどこから学んだかというと、高浜虚子から。虚子は、これが自分の句の一番いいのですよなんて、生涯一度も言ったことない。全部たいした句じゃないけど、なかにはいい句もありますよ、ぐらいのことしか言わないんだ。
森 虚子でいえば、赤星水竹居の『虚子俳話録』の中に、素十が、「又一つせんべいの蝿五家宝へ」という句を句会に出したら、虚子が取らなかった。で、素十が、「品が悪いところがいけないんですか」と訊ねたら、「品もよくないがそれよりも正しい興味ではないように思われてとらなかった」と虚子は答えた。実に確かな虚子の言葉だね。
飯田 それは見事な指摘だね。
【参考】飯田龍太/金子兜太/森澄雄「表現のよろこび」(飯田龍太/金子兜太/森澄雄/尾形仂『俳句の現在』、富士見書房、1989、所収)
↓クリック、プリーズ。↓