去年の春から夏にかけて、不登校やひきこもりの青少年を持つ親御さんの「考えさせられる印象的な言葉」や「多くがおっしゃる言葉」に対して、私の意見をお伝えしてきました。
それに関連して「言葉にはしないが、そう思っておられる方が多いだろうこと」を、このシリーズの最初にひとつ取り上げたいと思います。
それは「家でどんなにいい子であっても、学校・社会に復帰しなければ意味がない」という親御さんの思いです。
不登校やひきこもりのお子さんを持つ親御さんのお話をうかがっていて、印象的なことがあります。
それは「家でいい子である」というケースが少なくないことです。
本欄でも折にふれ指摘しているように、不登校やひきこもりは、暴力や神経症的行動などの「二次症状」がよく見られるものとされています。
しかしその一方で「家事を頼むとやってくれる」「弟妹の面倒をよく見る」「祖父母の介護を手伝ってくれる」など、本人が家族のよき一員として生きていることを示すお話をしばしば聞くのです。
この事実は、本人のどんな心理を表しているのでしょうか。
当然のことながら、人の生活には「公」の部分と「私」の部分があります。
「公」の部分は、子どもの場合「学校をはじめとする家庭外の場での生活」であり、おとなの場合「仕事をはじめとする社会的に認められた営み(主婦業やボランティアなど)での生活」とされます。
「私」の部分は、それ以外の生活、たとえば、家族どうしの交流、友だちづきあい、勉強、家の手伝い、趣味、・・・等々です。
そして「公」の部分を実行することは人としての義務であり、実行していないと「やるべきことをやっていない」「何もしていないに等しい」などと見られます。親御さんをはじめ周囲の人々も、本人をそう見ますし、本人自身もそう思って葛藤していることがよくあります。
このような状況で「今の自分にできることをする」という発想が生まれる不登校児やひきこもり青年がいます。
それは「自分は何もしていない」という負い目と罪悪感の苦しさから少しでも楽になりたい一心ゆえの、窮余の策なのではないでしょうか。
「公」の部分が実行できない彼らに実行できることは「私」の部分しかありません。だから「せめて家庭のなかで役に立つことをしよう」という、彼らなりの精一杯の姿勢だと思うわけです。
そこには、学校・社会で役に立っていない自分が、家庭で役に立つことで「自分はこの家で生きていていいんだ」と、家族の一員としての存在価値を自己確認しようという、切ない気持ちが働いているように感じるのです。
つまり彼らは、まず「私」の部分を実行することで自己肯定感を取り戻してから「公」の部分を実行する、というプロセスを歩もうとしている、と考えられるわけです。
それでは、そういう彼らに対して、親御さんはどう感じていらっしゃるでしょうか。
「やってくれるのはうれしいんだけど・・・」という複雑なお気持ちではありませんか?
できれば「私」の部分を実行するより、早く「公」の部分を実行できるようになってほしい、そのための訓練を受けてほしい、というのが本音ではないでしょうか。
これは「私」の部分に専念する時期を取り上げてでも、早く学校などの場や社会に復帰させようという対応につながる考え方です。
58号でお話ししましたが、ひきこもり時代の私は「公」の部分を実行すること=仕事を始めることを焦るあまり、実行できない状態のうちから仕事を始めようとしては挫折していました。
先を急いで挫折を繰り返したら、ますます自己否定感が深まり、生きる喜びも遠ざかります。
それとは反対に、不登校児やひきこもり青年が「私」の部分に専念して家族のよき一員として生きることによって、家庭のなかでの役割を獲得し、その役割における実績を積み重ねることは、自己肯定感や生きる喜びへとつながっていきます。
それを基盤に「公」の部分を実行できるようになるのと、自己肯定感も生きる喜びも抜きに「公」の部分を実行できるようになるのと、どちらのプロセスが本人に豊かな人生をもたらすか、明らかだと思います。
まずは「家庭内で役割を果たす力」を本人の力として認め、大いに発揮してもらいましょう。その力こそ、次のステップで発揮される力の基礎となってくれるのです。
2007.1.19 [No.136]
続けて『〔中〕家庭生活を楽しむことから』を読む(さらに〔下〕へ読み進む方は右側のカレンダーの「21日」をクリックしてください)
それに関連して「言葉にはしないが、そう思っておられる方が多いだろうこと」を、このシリーズの最初にひとつ取り上げたいと思います。
それは「家でどんなにいい子であっても、学校・社会に復帰しなければ意味がない」という親御さんの思いです。
不登校やひきこもりのお子さんを持つ親御さんのお話をうかがっていて、印象的なことがあります。
それは「家でいい子である」というケースが少なくないことです。
本欄でも折にふれ指摘しているように、不登校やひきこもりは、暴力や神経症的行動などの「二次症状」がよく見られるものとされています。
しかしその一方で「家事を頼むとやってくれる」「弟妹の面倒をよく見る」「祖父母の介護を手伝ってくれる」など、本人が家族のよき一員として生きていることを示すお話をしばしば聞くのです。
この事実は、本人のどんな心理を表しているのでしょうか。
当然のことながら、人の生活には「公」の部分と「私」の部分があります。
「公」の部分は、子どもの場合「学校をはじめとする家庭外の場での生活」であり、おとなの場合「仕事をはじめとする社会的に認められた営み(主婦業やボランティアなど)での生活」とされます。
「私」の部分は、それ以外の生活、たとえば、家族どうしの交流、友だちづきあい、勉強、家の手伝い、趣味、・・・等々です。
そして「公」の部分を実行することは人としての義務であり、実行していないと「やるべきことをやっていない」「何もしていないに等しい」などと見られます。親御さんをはじめ周囲の人々も、本人をそう見ますし、本人自身もそう思って葛藤していることがよくあります。
このような状況で「今の自分にできることをする」という発想が生まれる不登校児やひきこもり青年がいます。
それは「自分は何もしていない」という負い目と罪悪感の苦しさから少しでも楽になりたい一心ゆえの、窮余の策なのではないでしょうか。
「公」の部分が実行できない彼らに実行できることは「私」の部分しかありません。だから「せめて家庭のなかで役に立つことをしよう」という、彼らなりの精一杯の姿勢だと思うわけです。
そこには、学校・社会で役に立っていない自分が、家庭で役に立つことで「自分はこの家で生きていていいんだ」と、家族の一員としての存在価値を自己確認しようという、切ない気持ちが働いているように感じるのです。
つまり彼らは、まず「私」の部分を実行することで自己肯定感を取り戻してから「公」の部分を実行する、というプロセスを歩もうとしている、と考えられるわけです。
それでは、そういう彼らに対して、親御さんはどう感じていらっしゃるでしょうか。
「やってくれるのはうれしいんだけど・・・」という複雑なお気持ちではありませんか?
できれば「私」の部分を実行するより、早く「公」の部分を実行できるようになってほしい、そのための訓練を受けてほしい、というのが本音ではないでしょうか。
これは「私」の部分に専念する時期を取り上げてでも、早く学校などの場や社会に復帰させようという対応につながる考え方です。
58号でお話ししましたが、ひきこもり時代の私は「公」の部分を実行すること=仕事を始めることを焦るあまり、実行できない状態のうちから仕事を始めようとしては挫折していました。
先を急いで挫折を繰り返したら、ますます自己否定感が深まり、生きる喜びも遠ざかります。
それとは反対に、不登校児やひきこもり青年が「私」の部分に専念して家族のよき一員として生きることによって、家庭のなかでの役割を獲得し、その役割における実績を積み重ねることは、自己肯定感や生きる喜びへとつながっていきます。
それを基盤に「公」の部分を実行できるようになるのと、自己肯定感も生きる喜びも抜きに「公」の部分を実行できるようになるのと、どちらのプロセスが本人に豊かな人生をもたらすか、明らかだと思います。
まずは「家庭内で役割を果たす力」を本人の力として認め、大いに発揮してもらいましょう。その力こそ、次のステップで発揮される力の基礎となってくれるのです。
2007.1.19 [No.136]
続けて『〔中〕家庭生活を楽しむことから』を読む(さらに〔下〕へ読み進む方は右側のカレンダーの「21日」をクリックしてください)