どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

カメラマンと写真7

2012-12-30 15:05:21 | 写真の話し
デジタル化になってから、いろんな人に聞かれた。「デジタルって本当はどうなんですか」


もう答えるのが嫌になって来た。「やっぱりアナログですよ」そう答えると、ホっとした顔をして「やっぱりそうですか」とため息をつかれるのも、飽きて来た。

実はかなり前からアナログは危機的な状況になっていたのだ。まずプリントを仕上げる職人が減って来たのだ。カラーネガからプリントを起こす場合なんか特にそうだ。そんな事は無い、街にはいっぱいプリント屋さんがあるじゃないのか、そう思うかもしれないが、あのシステムですら、使いこなせているプリンターがいる店はかなり限られている。
ましてや全紙などを焼けるプリンターは現在絶滅危惧種になっている。

これは経済効率の問題だ。全紙を注文する客は大体ウルサイ。ウルサイから気に食わないと言って、焼き直しさせられる。何回やっても1枚分しか料金が取れない。これでは誰もが逃げる訳だが、実際4つ切りサイズの見本を付けてもダメなのだ。そうゆうプリンターが増えた。
昔カラーで写真展をやった時、なぜかすんなりきれいに行くロットがあったのだ。その時そのラボにはプリンターが5人いるがそのうち一人が、本当のプロだったのだ。その人指定でやれば大丈夫だったのだが、それからしばらくして辞めてしまった。

最近多い言い訳には、ペーパーが違うから見本と同じようには仕上がらない、というものだ。
さて今の、あのL版とかのプリントを作る街のプリント屋さんがもっているシステムだが、実はあれはデジタルプリンターだ。フィルムを高性能のスキャナーで読み込んで、写真のカラーペーパーをデジタル向きに作り直したペーパーに置き換えて焼いている。昔と同じく焼いているのだが一気に焼くのではなく、スキャナーの逆で、ペーパーが移動しながらレーザーで露光してゆくのだ。
大体出力は320dpiなのだが、焼く時にちょっとした事をしているらしい。拡散処理と言えばいいのだろうか、dpi数よりかなり細かく見えるように処理しているようだ。だからフィルムから焼いたのと遜色は無い。

ただ厳密に見れば乳剤層が少し薄いように感じられる。若干コクが薄いようにも感じられる。

だがそのシステムを使いこなせられるプリンターが、やっぱり少ない。中身はデジタルのバケモノなのだ。何でも出来るのだが、そこまでの注文も少なく、使いこなすだけのトレーニングを積む暇もない。


デジタルも1200万画素を超える頃から写真と遜色無くなって来た。あとは色の最大濃度の問題と、色の分離だけだが、最大濃度はCCDがCMOS系に変わってダイナミックレンジが向上した。色の分離は撮像素子からのアナログ信号(撮像素子は最初っからデジタルデーターを出している訳ではない。微小な電圧の差で構成されるデーターだ)をデジタルに変換する所のbit数が12bitから14bit以上になり、色の分離が向上した。


色の分離だが、昔のケータイについていたカメラだがデジタルが10bit程度だった。それがようやく12bitになったが、スマートフォンだと14bit以上なのではないのだろうか。この差がガラケーとスマホの写真の写りの違いになっている。

デジタルはもう少し進歩するはずだ。既にアナログを凌駕している部分もある。それは流通だ。

アナログの欠点は、流通だ。限られた人にしか見せる事が出来ない。だがデジタルはいくらでも可能だ。そもそもデジカメはそうゆう発想でアップルが作ったものだ。もちろんその前からコダックが作っていたが、アップルが利用法を考えたと言ってもいい。
撮って、すぐにメールに添付して送る。例えば外出した折に、気になったカップがあった。それを彼女にプレゼントしようと思うのだが、どうしようか。そこで写真に撮っておくって聞いてみる。そういった使い方や、商談や建築の進行具合とか、百文は一見にしかず、みたいなことはいっぱいある。


そう。写真は生まれた時には誰もがどう使うのか解らなかった。だから肖像画の代わりとかになった。もしくは新しい絵画とも捉えられた。だが写真が生まれたフランスでは、悩んだあげく建築物の記録保存に使った。そしてしばらくすると、写真を交換し合うコミュニケーションツールになった。カルト・ド・ヴィッジだ。
だが日本では家族の記録とかそういった方向のみに進んだ。おみあい写真とか七五三の家族写真とか遺影などの肖像写真と、パパががんばって撮影した家族のスナップとか、そういった消費になっていた。外に出すのはせいぜい年賀状の家族写真くらいなもの。あとは来客が求めたら見せる程度。

そう出なければ逆に、他人に見せるための作品としての撮影、そればっかりだった。
その前に写真には何か呪術的な何かを誰もが感じ取っていた。死の匂いだ。なんらかのタブーがあった。なのである一定以上の年齢の女性は、写真を嫌いになる。

コミュニケーションツールにはならなかったのだ。それがデジタルになって、コミュニケーションツールとして変化しつつある。
デジタルの起こした最大の変化だ。

デジタルとアナログは、既に対立軸を失っている。使い方の問題のみだからだ。
だがアナログはますます衰退するだろう。今既に、アナログを支える基盤がズタズタになりつつあるからだ。だがニッチのように生き残るだろう。どの程度か解らないが。


カメラマンと写真6

2012-12-30 14:03:30 | 写真の話し
昔、自分の事を写真家と言っていた。最近ではカメラマンと言うようになった。これはデジタル化の影響だ。
もう少し控えめな表記にした方がいいと考えたのだ。


昔いつものカメラ屋の社長が、「M野さん、いつから写真家になったのですか」とイヤミを言って来た。「税金の確定申告以降です」、店内大爆笑だった。

まあその頃から写真家って偉すぎないのか、と考えていた。だがアナログのものつくりに近い作業が、やっぱり家業的な、そんな感じをもっていた。写真展も何度か開いたし、まだ公開していない作品もある。なので写真家と言えばそうなのだが、ちょっと変わって来たのだ。

やればやるほど、テーマが重要になってくる。そしてそれ以上に個性が大切になる。しかも突出した何かがだ。最後に開いた写真展には、実は対になる企画があった。大体まとまっていたのだが未だもって仕舞いっぱなしになっている。最後がある意味、シューベルトの「冬の旅」でかなりマジメなものだった。真冬に、ひたすらほっつき歩いて撮影したものだ。対になるのは「パーソナルドキュメント」を超えて「写真で大嘘をつく」で、太宰治の「津軽」のパロディだった。


そう、自分の趣味がどんどん変わってゆき、撮る写真がどんどん軽くなってゆく。そういったのが解って来た時期だった。当ブログでは、そういった所も実験的にやっている。今の自分の一番軽い所を前面に出す、そういった具合だ。


アナログからその手触りとか物質性を取り除いたものが、デジタルだ。そこで重要なのは、ますます必要になったテーマと個性だ。軽くフワフワした自分が、写真家と名乗るのには既に限界が来ていた。



写真家と名のった頃から大切にしている言葉がある。ロラン・バルトの「明るい部屋」の最後の文章だ。

「愛と怖れに満ちた意識に、『時間』の原義そのものをよみがえらせるなら、『写真』は狂気となる。」

この言葉からどんどん離れてゆき、「方丈記」へと向かってゆく気がする。
ポスト・モダンそのものの中に写真が投げ込まれている。その中では、テーマから個性からすべてが流転してゆくのだ。そして私そのものも翻弄されている。



その中で「作品」を作るとはどういった事なのだろうか。「作品」の「不可能性」すらも感じてしまう。


さてデジタルで最も怖れている事は、データーを何で保存しようが、いつかは読めなくなってしまうことだ。実際今あるデジタルデーターの最も古いのは16年前のものだ。このデーターはCD-Rで保管しているのだが、読めなくなったデーターがある。それでは何年かにいっぺんバックアップのバックアップを作るべきだとなるが、もう手に負える量では無くなっている。それにいくらデジタルだって10回もコピーすればデーターが劣化する。
それではクラウドサービスはどうかとなるが、現時点で20Tはあるデーターを保管してもらうだけでかなりな金額になる。それではいっその事、フォトシェアのサービスにぶち込むかとなるが、趣旨が違いすぎるし彼らに迷惑だ。


頼まれて結婚式の写真を撮る場合、デジタル入稿なのだが、絶対写真も付ける。両方ダメになる事もあるが、写真だったらカビが生えようが脱色しようが、なんとか見れるし残る。
ロラン・バルトの言葉通りに写真がなるためには、見れないとしょうがないのだ。


カメラマンと写真5

2012-12-30 13:10:34 | 写真の話し
アナログのいい所は、なんといっても目で見えることだ。デジタルは直接的には見えない。コンピューターを通して、そのCPUで計算され、モニターのGPUによって書き出されたものだ。そうやってモニターの表面に見える。
実はこれが厄介で、ウチのモニターと隣のモニターで見え方が変わる。だからカラーキャリブレーションと言うのが流行った。カメラとコンピューターのモニターとプリンター、印刷所のモニターと製版機の色を統一しましょう、そういったものだ。
だがなかなかうまくいかない。なんでそうなるのかと言う事で、結局カメラマンのモニターに責任が押し付けられる。カメラマンとしては、品質保証の意味があってキャリブレーションをする事になる。だがそのコストは大きい。

自動キャリブレーションの装置があった。モナコという商品だったと思うが、モニターの中心部に観測器を付けて、いろんな色を連続して出して、その観測結果からキャリブレーションすると言うものだった。契約している会社が、オマエのモニターがおかしい、ウチのを使えと言ってモニターがやって来た。キャリブレーションにウルサイ会社だったのだが、そのモニターどうみても何かがおかしい。画面の周辺と中央部の色が違うのだ。

モナコの使い過ぎで、画面中央部が焼けていたのだ。これではキャリブレーションと言っても限界がある。そもそも見えている絵が狂うのだ。それを会社に言うと、それでもそれでもそのモニターを使えと言う事だ。
キャリブレーション信者になっていたのだ。

実はデジタルの導入は速い方だった。とは言ってもデジカメに移行するのはとても遅く、アナログをデジタルに置き換えて使うのが長かった。なのでキャリブレーションの意味は解っている。出来る限り徹底してやっていたのだが、ある時アドビのキャリブレーションで十分だと気がついた。むしろ自分の感覚をどうキャリブレーションするのかが問題であると。基準は写真屋にデーター持ち込んでプリントをする事だった。そうしてズレを修正してゆく。

さて最近キャリブレーションの話しは聞かない。理由は簡単だ。液晶モニターが普及したからだ。特にLEDバックライトの液晶モニターの融通が利かないからだ。ヘタにキャリブレーションすると、もの凄い画が映し出されるようになる。キャリブレーションの意味が全くない。多分そのせいだろう。


アナログのいい所は、現像が終わって出来た結果そのもの、それ以上もそれ以下でもないからだ。プリントしようが印刷しようが、その原盤に忠実でなければいけない。とてもシンプルだ。

フィルムの中で、魔法のように分子が動き回り、画が浮かび上がってくる。まあそのためには、フィルムのロットや露出とか光源に対してとか、現像所によって更に考えるとか、様々な事に気をつけて撮影しなければならないのだが、出来上がった結果はどこに持って行っても同じなのだ。これ以上確かなものは無い。


デジタルはその点相対的だ。クィックタイムで描画した場合と、フォトショップで描画した場合とで見え方が違う。モニターの質も影響するし、OSすらも影響してくる。ここがデジタルの嫌な所だ。


カメラマンと写真4

2012-12-30 03:20:18 | 写真の話し
次からはアナログvsデジタルの話しになります。

私の仕事のほとんどが、現在デジタルです。アナログは昔の機材を維持するために撮影する程度で、うっかりすれば忘れてしまうほどです。

さてこの対立は、よく言われているほど難しいものではありません。
まったく別な映像手段だからです。比べる必要もありません。それでもアナログに圧倒的な優位を感じます。これは簡単です。フィルムサイズを変える事が出来るからです。そしてフィルムの特性です。

例えばアメリカの著名な、いや神と言っていいアンセル・アダムスは、8インチ×10インチサイズのフィルムを使っていました。彼らはレンズの絞りを極限まで絞って撮影するので有名です。F64グループと言っていたほどです。当時のレンズの性能、特に大板カメラ用のレンズの解像度が悪かったのも原因ですが、ここまで絞るとレンズの性能が極度に悪くなります。大体64線/ミリです。今言われている単位では、1500dpi程度でしょうか。当時のフィルムの解像度がその程度だったと言う説もあります。
ただ作品を目の前にすれば、圧倒的な情報量を感じるはずです。なぜでしょうか。
実はアンセル・アダムスですが、アメリカの教科書を作るほどの理論派でした。撮影の段階でフィルムに移すデーターを考え、現像でプリントイメージに一致させるように、コントロールしているのです。その結果フィルムの機能から、印画紙の機能までフルに使うのです。
さてF64まで絞って撮影した映像と言うのはどういったものなのでしょう。実はピントがボケています。全体で見ればあっているように見えるのですが、小さく見ると少しにじみがあるのです。これはどういった事なのかと言えば、レンズについている絞りから、光の回折効果でピントがあっていても光が集中しないと言う現象が起きるのです。

しかしですね、フィルム上に散らばっている銀塩からみれば、このにじみが作るグラディエーションが大切になります。実はフィルムには特殊な現象があります。フィルムはベースになるプラスティックの上に、ゼラチンと銀塩を混ぜたものを塗って出来ています。この混ぜたものを乳剤と言っているのですが、たしかアダムスの時代でもこの乳剤を4層程度には重ねていたと思います。フィルムベースのプラスティックから、接着層(ベースからの反射を防ぐために色素添加)高感度乳剤層、低感度乳剤層、そして保護層となります。光が入る向きから言えば、保護層は出荷から現像が終了しても、一枚膜があれば傷つく怖れが無い、もしくは回復できるためにある層です。次に低感度乳剤層になりますが、これはフツーですね。そして高感度乳剤層は、2層を通って減衰した光に対して反応できるようにしたものです。低感度乳剤を単純に厚くすれば、実は高感度になります。ただ厚さの分だけ解像度の低下が大きいので、2層に分けるのです。
ちょっと解りにくいと思いますので、光を円錐だと思ってください。さきっちょだけで反応したら解像度が上がります。でも根本まで来たら根本の太さが解像度の限界です。フィルムは薄ければ薄いほどいいのです。ただ物理的に限界があります。そこでこういった多層構造になるのです。
カラーフィルムだと最低12層程度に薄く作られています。もっと多いと思います。

ベースとの接着層に色素を入れるのは、ケースバイケースです。ただ必要な層です。これをなんと言えばいいのでしょうか。ミルフィーユの一番下、とでも言いましょうか。フィルムの固さとゼラチン層の固さのつなぎと言えばそうなります。


さて長くなりましたが、化学反応で現像するのですから、実は余分なものが出ます。その余分なものが周りの化学反応に影響するのです。代表が塩化銀の、その塩です。ハロゲンと言いますが、それが銀から分離される反応、還元反応というのですが、切り離されて分散してゆくのですが、それが光の当たった強度で量が変わります。量が多い所は量の少ない所に分散してゆきます。同じ仲間がいる所はイヤだと言う事です。なので明暗の差が大きい所にはなぜか自動でエッジが出来てしまいます。ハロゲンはせっかく還元された銀と反応してしまうからです。

さてカラーフィルムとかになると更に複雑です。RGBの色の層が干渉し合うのです。しかもフィルムの薄い層の中で複雑な工程が起きます。
各色の層の、感度層に牽制しつつも、アンシャープマスクをかけつつ全体を制御している、とでもいいましょうか。

レンズから来た適切な光がフィルムに当たって、それが現像されて画になるのですが、フィルムの中では実は複雑な事が起きているのです。


さてアンセル・アダムスですが、フィルムと印画紙を密着させて、写真を焼いていました。最も写真表現としては理想です。直接的な表現だからです。
コンタクトプリントには拡大と言う作業はありません。直接と言う意味で、コンタクトプリントと言うのですが、35ミリだろうが何だろうが、コンタクトプリントの生々しさはすごいので、どこかで体験して頂ければ。だけどインパクトはありませせん。
大きく引き延ばされてプリントされている作品があります。それでもアダムスの価値は変わりません。なぜなのでしょうか。拡大倍率の問題はありますが、フィルム上に残されたにじみが関係していると思います。

レンズからのにじみと、複雑な化学変化によるフィルムの出来上がり。にじみとフィルムと現像方法が単純な拡大倍率の話しと違うのです。


アンセル・アダムスは本当に神様なのですよ。アメリカで写真の教科書を作っただけではなく、1940年代以降の写真表現を決定づけて、なおかつ、アメリカが愛する作品を作ったのですよ。


次は、やっぱりアナログ擁護にしましょう。