どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

そして看板

2015-01-12 03:48:52 | 日記

 

さて電信柱にはどれくらいの人が関わるのか。許認可の役所を含めて行けば、電気100V・200Vは経済産業省、電話・光ファイバー・PHSアンテナ等がついていれば総務省、信号や道路標識がついていれば警察庁、道路に立っていれば国土交通省、防災無線がついていたらこれも国土交通省、まあこれはそうそうないか。ケーブルテレビとか有線放送のケーブルも乗っている事がある。関係省庁やら業者がいっぱい関わっている。だから土中化するとなにがなんだか解らなくなるのでイヤだと言い続けて来た。間違って他の線を切ったりしたらどうするんだと言う事だ。確かに空中で見えている方が楽だ。とはいえ最近では共通抗のシステムも良くなったようで、なんとか調整しようと思えば出来るようになった。

 

 

だがもう一つ業者が絡んでいる場合がある。看板だ。この電柱に看板と言うのは誰が始めたのかは解らないが、かなり古いのではないのだろうか。電力会社や電話会社がある地域の電柱に看板を付ける権利を入札させる。広告代理店がそれを受けてお客を集めて設置して、利益をとっている。

かなり古いのではないのかと思うのは、今でこそ全国通津浦々に電線が通っているが、昔は新しく設置するのもコストだった。えらく遠くに電気を引く場合は、今でも個人が費用を負担しなければ行けない。しかし市街地となるとそうも行かない。そこで電柱を立てるコストを軽減させようと、代理店から金を取るシステムを考えた人がいるのだろう。そして電柱看板には需要があった。何しろ小さくとも高い所にある。今のようにマンションなどが立ち並ぶ時代ではえらく目立たない看板だが、昔はそうでもなかっただろう。そして街灯がついていれば否応無く目立つ看板でもあった。

今でこそ証明付きの看板が当たり前になったが、当時とすればけっこうな広告効果だったろう。

 

 

アレックス・カー氏の言う通り看板は都市景観から自然景観を損ねているのは事実だが、経済と言うのは大きい。盛岡市内でも交通量が多く、それでいてスピードを出しにくく、信号で止まる事があると言う一等地の看板群だ。

多分なのだが、ここにあった商店は店を取り壊しても看板だけにした方が売り上げが上がっただろう。ここの広告宣伝費はかなり高いはずだ。

ただかなり空いている。不景気なのだろう。

 

 

実は看板と言うのはえらく金がかかる物だ。例えばこのコンビニの看板だが高さが低く抑えられている。理由は視認性が悪い所に立てなければ行けなかったからだ。そこで費用対効果を勘案して決めた物だと思う。

それでは無くてもいいのではないのかとなるのだが、そこにコンビニがあると認知させるために看板がある。この場合は特にその傾向が強い。そうコンビニは社会認知が重要なのだ。ウチの近所のセブンは出来てから半年、セブンにしてはかなり苦戦したと思う。理由は看板が木で隠れて見えなかったからだ。

青少年ホームや専門学校の窓を使った看板は、費用は安い。しかしそこまでしないと行けないと言うのが日本だと言う事。

 

 

盛岡市内で看板が無ければいいのにと思う風景の一つだ。この通りを通るとある不思議な所に気がつくかも知れない。看板の高さが似通っている訳だ。この通りのスーパーとガソリンスタンドとコンビニの看板の高さはあまり変わらない。さっきのサンクスの高さが特に低いのだ。奥にダイソーがあるがその看板はもう少し高い。なぜ大体の高さになってしまうのかと言えば、実は設置認可がある。こんな看板立てますと、設計図面を提出するのだが、看板の高さが高くなればなるほど景観条例があろうがなかろうが、認可が難しくなる。そしてその高さがある程度以上だと更に費用がかさむ。そういったことで高さが大体決まってしまう訳だ。

次ぎに土壌の問題がある。看板設置で一番問題になるのは風対策だ。風で煽られて飛んでしまっては意味が無い。どこかの屋根にぶつかってしまうと企業イメージダウンになる。なのでかなり深く杭を打った上に看板を立てる事になる。高ければ高いほど深く打たないと行けない。そして上のパイプも一本足なら丈夫な物を選ぶし、看板の材料も軽くて丈夫な方がいい。車がぶつかって車に倒れ込むように看板が折れたらそれこそ一大事だ。

それでいて看板が大きければ大きいほど、高ければ高いほど基本的には宣伝効果がある。ただそうなると建設費がどんどん、等比級数的に大きくなる。高くすればするほど、大きくすればするほど特殊な素材を使わなければ行けなくなる。その分のコストも更に大きくなる。耐光性や視認性、そして架け替えた時のコストも問題になる。

そういったことで、看板と言うのは資産価値がある訳です。建設費のコストが実は以外と高い訳です。写真手前にある看板でも基礎工事はしたと思います。コンビニの一本足とかになるとそれなりのお値段。郊外のトヨタディーラーの看板だとレクサスの一番高いのより高い。2台分?最新情報が無いんで、それでもそんな具合だと思います。

 

 

看板と言うのは、ある意味無意識下に働きかけるような物です。風景の中にあって、何かあった時に思い出してもらう機能です。サブリミナル効果と言うべきでしょうか。交通量の多い道路の交差点とか、緩いカーブの所に頻出するのはそう言った事です。

しかしその中でも駐車場看板と言うのがある訳です。これはクレーム対策看板です。駐車場がどこ?と言われないように看板をデカく作る訳です。少し奥にあるP24の看板が小さいのは解ってはいる人しかいないからです。

なぜか無料だと表示が解りにくいとか言われるのが日本です。有料だとなぜかそれが無い訳です。選択という行為での何かですね。車を止めたいだけだったら意思の問題になるのですが、いんべクリーニングを選択したら駐車場が解らなかったと言うのがクレームになる訳です。

電信柱広告の中でも、この類いが目立つようです。

 

 

渋滞が起きやすい場所での看板展開なのですが、旧市内なので結構妙な事が起きています。病院と祭祀場ですか。そして奥に映画のポスターを張る看板があります。この映画ポスター看板は盛岡らしい所です。

さてあなたが家を持っていたとして、広告代理店が看板を立てて副収入を得ませんかと言って来たら、大体の人は断るでしょう。でももしも家計が苦しかったらどうするでしょうか。

この家が貧しいとは全く思っていません。なにしろ街の一等地近くです。全く問題がないのになぜ看板だらけにするのかは謎です。ただ基礎からキチンとした看板があるから、この収入が割といいのかもしれません。

カー氏の言う看板だらけの醜い日本ですが、経済的な問題が極めて大きいのです。

新幹線から見える看板と言うのはその実例です。新幹線からは小さく見えるのですが遠くにあるので実は巨大です。土木工事から作るまで、実はかなり高価な物です。問題なのはそれを設置した代理店が倒産してその権利が他に移動したりします。看板は資産なのです。そうすると借地権でお金をもらっていた地権者が解らなくなるほど権利錯綜したりします。まあお金が入っている分にはいいのですが、看板はそれなりの建設で作られている物ですから撤去が難しい訳です。そして行政は単純ではない民事にはおいそれタッチしない訳です。

私有資産の運用に対しては行政はタッチしないのが原則です。

ところであなたが米栽培農家だとして、年10万お金が自動的に振り込まれると知ればどうする?米では年収20万だ。兼業でがんばっている。そういった事もある。

 

 

ただ日本の広告文化と言うのはかなり変わっていると思う。例えばこの写真の映画ポスターの掲示看板だが、多分サブリミナル効果もない物だと思う。所が私事で言えばなんだが、確実にある訳です。これで見たいなと思う映画がある訳です。

そしてマルフクの看板もあります。サラ金ですね。倒産したと思っていますが、サラ金ほどサブリミナル効果を狙った看板も無い訳です。困って困って目を上げた時に、この看板。電話して融資を受ける、このサイクルがある訳です。

都市伝説的には、返済に困ったお客にこの看板を付けさせる事で金利減免とかしたそうです。ただ返済が終わっても外す事は許さなかったというのが、恐ろしい所です。

地方ではどこでも残っている町内会地図なのですが、実はこれも広告看板です。町内を解りやすく地図で見せて、誘導しようという物です。字の大きさとかで扱いが違います。そして角に別枠で大きく書く事で、更に料金をとっている訳です。

 

 

さて私の言いたい事と言えば、この広告文化というのはちょっと無い物なのかも知れないと考えています。特に地図看板はある意味グーグルを先取りしています。そして電柱看板はインフラ整備に役立ったのかもしれません。そして看板は私有財産であり資産ともなっています。そしてその認可や建設費、そしてその撤去費は大きいと言えます。

出来てしまった物はそうそう壊せない訳です。

この写真は、電柱が私有地にある場合です。このケースでは多分道路行政上、狭すぎて電柱を道路上に置けなくなった物だと思います。この場合は私有地なのでお金が発生します。借地権ですね。高くはないと思うのですが、それでも収入としてあればありがたい物です。

そういったのが農村だとどうなるのか。農産物の不安定さに比べれば定期収入がある。これは大きすぎます。

看板文化と言うのは、変わった物だと思います。アジア的でもあると思います。時間をかけて成熟した文化と、比べられると少し困る気がします。なにしろどこになにがあるのかすらも解らなかった、焼け野原があった訳です。看板の効果は、あの頃から始まっているのだと思います。

成熟した文化を持ちつつ、コンセンサスの無い文化でもあり、経済優先だったりする日本は、まだまだ成熟しきっていないと言う事だと思います。

そうヨーロッパのあの過酷な歴史は無い国ですから。