どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

描かれていない肖像

2015-01-15 11:27:22 | 日記

 

さて予言者ムハンマドをどういえばいいのか。神から啓示を受けて、神の言葉をそのままに写したものがコーランだ。そして予言者の所行を書き写したものがハーディースになる。

キリスト教は元々はユダヤ教の一派であったと言われている。その中の一人がキリストの死後ではあったが、大革命を起こして現在のキリスト教を規定している

キリスト教では、予言者として神の言葉を書き写したものが無い。神の子としてのキリストの言葉は福音伝で書き表されている。神の子だからそれで十分なのだが、ユダヤ教の一派でもあったからユダヤ教の聖典を引き継ぐ事になる。ユダヤ教でも偶像は禁止されているからキリスト教でも禁止なのだが、キリストは神の子であって神ではないので、偶像を造ってもいいと言う事にもなる。プロテスタントはいったん偶像を禁止したが、今現在は祭壇には無いと言うだけで特に禁止しているとは思えない。

 

 

それではイスラム教では、なぜ予言者の肖像は禁止されているかと言う事だ。ここには神の偶像禁止というのが反転して、予言者の肖像が禁止されていると考えている。まあその前に森羅万象なんでも描き写すことは禁止されていた時代もあった訳で、ギリギリ植物ぐらいで壮大なパターンをともなうモザイク装飾が流行ったりした。かつては写真なんてもってのほかと言うのもある。今では「許された」と思う。

イスラム法学はめんどくさいものがある。以外と実証主義なのだが、その確認作業がけっこう大変だ。電話なんて、電話を通じて悪魔がコーランを変えてしまうのではないのかということで、電話でコーランの一節を語り、聞き手が誤りが無いのか確認した。もしも悪魔が変えてしまったら聞き手にとっては大変な話になる。間違いが無く大丈夫だが、宗教的冒険なのは間違いが無い。かくして電話は「許された」。

さてハーディースあたりに予言者の姿が書かれていると思うが、画や彫刻になっていないと言う事は図像学が蓄積されていないと言う事になる。例えば「最後の晩餐」は様々な人に書かれているが、登場人物すべてが特定出来る。こう描けばこの人、この人はこのポーズ、この人の持ち物はコレと言うのがきまっているからだ。逆にミケランジェロの「最後の審判」のキリストはそこを破ったマッチョに描かれているが、なぜ特定出来るのかと言えばその周辺に描かれている人物が特定出来るからだ。

まあキリストと群像を描いたら、キリストを真ん中に置くというのは当たり前でもあるが。

さてシャリル・エブドだが100万部が300万部に増刷されそれでも足りないと言う事になっているようだ。オークションで700ドルの値段がついた。その表紙には白のターバンと白の服を着たギョロメの人物が「私はシャリル・エブド」と書かれた紙を持って、泣いている。報道ではこれは予言者だと言っている。多分大多数のイスラム教徒もそう思うだろう。だがコーランの一節やハーディースかのシーンをともなって描かれていないこの人物は果たして予言者なのだろうか?

シャリル・エブドがアラブ人を描くと、それは予言者のパロディだと刷り込まれてはいないのだろうか。実際シャリル・エブドはその辺りを注意深く描いたと思う。

CNNに「世界各地の漫画家がペンで訴え 仏紙襲撃」と言う記事がある。この中でオーストラリアのデビット・ホープ氏の作品が意味深だ。漫画家が殺され、現場のテロリストが「彼が先に描いた(抜いた)」と言っている。一見イスラムを正当化しているように思えるが、イスラムは表現に規制が多すぎる。そう思ってみるとこの画が反転してくる訳だ。テロリストは嫉妬で殺してしまった訳だ。オレが描きたかったのに…とみっともなく見えてくる。

さてアラブ人を描く時には気をつけよう。なにしろ予言者でないムハンマドさんはいっぱいいるからだ。勘違いされてしまう。